少し前にもどこかで書きましたが、昔の不登校と違い、今の不登校には悲壮感がありません。確かに不登校自体は問題でしょうし、中には大きなトラブルを抱えているケースもありますが、総合的には問題のレベルが軽度になっています。
総数自体は相変わらず多いものの、程度が軽くなっている点を鑑みるに、不登校問題は改善の方向に向かっていると思われます。先の進学・就職ルートがある程度見えるようになってきたため、不登校そのものが矮小化しているのかも知れません。
広告代理店の博報堂が、つり目リーゼントの古いガチンコヤンキーと比較して、地方の「ゆるいオラオラ系」を「マイルドヤンキー」と定義したのは5年程前ですが、不登校についても、昔の絶望的不登校と比較して、「何となく不登校」を「マイルド不登校」と定義しても良い気がしますね。
昔の不登校は、壮絶な「いじめ」のような、誰が見ても「すぐ逃げた方が良い」とアドバイスしたくなるようなものが比較的多く、現場にもそれなりの緊張感がありました。しかし、今の不登校の子達の話を聞くと、
「何となくネトゲやってたら起きられなくなっちゃって……」(生活習慣+仮想空間系)
「学校は行ってないけど、友達とは結構繋がってます」(ラインあるなら、学校って意味なくね?系)
「行っても良いけど、うちの学校馬鹿多くて話しててつまらない」(頭の回転良すぎる系)
のような例が過半数を超え、昔のような「逃避的不登校」という形式から「選択的不登校」へと姿を変えています。
「逃避的不登校」は、概して学校環境に押し潰されかけている、「消極的不登校」です。学校がまともなら通いたいと思っているものの、友人関係やクラスの空気、学業不振、或いは教員の姿勢など、何らかの要因で学校へ行けなくなっているケースです。旧来型の不登校は、こちらに該当します。
一方で「選択的不登校」は、学校で大きなトラブルはないものの、登校に対するメリットを見いだせず、他の環境を模索している「積極的不登校」です。かつて、通信設備が脆弱だった時代には、眼前で会わないとコミュニケーションが取れませんでした。しかし、現在はPCなりスマホなりで通信環境が非常に良いため、体を動かさずとも人間同士のリンクが得られるようになっています。そのため、学校という物理的環境に「移動」する意味を見いだせなくなっている子達が出現しているのだと思われます。
具体的トラブルがないため、概して積極的不登校は「怠け者」扱いされがちですが、事実は必ずしもそうではありません。大人と比較して、子供は新しい環境に対する感受が巧みで、彼等の動きは、「怠惰」というよりは寧ろ「適応」に近いものがあります。
核兵器の開発も、最初は実際に核実験を物理的に行うことで進められていましたが、データが蓄積されるにつれ、シミュレーションだけで開発が可能となっています。これと同様に、学校という物理的空間も必要性が乏しくなり、物理性を必要としない仮想的なデジタル空間だけで、ある程度ニーズが満たせるようになってきたのでしょう。彼等は、その変化に巧みに適応しています。
ただ、仮想空間だけで十分かと言えば、それもまた違います。確かに、データのやり取りだけなら楽ですが、人間は生身の肉体から切り離して生活することが出来ません。また、自分の思考だけで人生に上手く伍していけるわけでもありません。家に留まれば体も衰えますし、人と会わなければ、小さな所作一つ取っても不備が生じ、負い目を感じるようになります。
今でも各種メディアを見ていると、「不登校」=「かわいそう」「助けてあげなきゃいけない存在」のように扱われていて、寧ろそれを促すような傾向さえありますが、個人的には、この「マイルド不登校」の流れを見ている限り、そんな扱いは必要ないと思っています。情報提供は必要ですが、大人がアレコレお節介かけるほど、最早不登校は大きな問題ではなくなってきている気がしますね。
多少の注意点はありますので、それはまたどこかで書くことにしますが、要点をまとめると、
「不登校も普通の生き方になってきて良かったね」
ということです。
[…] 参照:「マイルド不登校」雑考 […]