不登校・引きこもりからの大学進学塾

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比較的上手く行きやすい脱ヒキルート

 脱ヒキの際に目標としてお薦めなのが、「量産型エリートルート」。

 量産型エリートルートとは、所謂進学校や、MARCHや早慶等、有名私大の附属校等に在籍している学生さん達と似たような方向性を取った上で、多少なりとも就職安定性の高い専門職系ルートに乗り直すこと。要は、CARPEでよく話している医学部とか薬学部とかで、日常生活のあり方もこれに合わせてしまうと楽みたいですね。

 量産型エリートの良いところは、既に規格化された経済的安定性と社会的地位が最低限パッケージ化されているため、余計な思考が不要なのと、全ての能力修正が「そこそこ」で構わない点。経験則上3年もあれば、0スタートでもほぼ全てのルートに戻ることが出来、その間に生活面や対人関係の修正もついでに行っておけば、大学でもそんなに困らないようで。「ちょっと苦手な部分もある大学生」という、分かりやすい完成形が一つ出来上がり、その後は、元の環境とのリンクを維持しながら段階的に新生活に慣れていけば、それで終了。

 この種の量産型エリートは、15年以上前から成功例が安定的に出ていて、目立った問題点がほぼなく、「引きこもりは能力問題故、有能化が鍵」というポイントがそのまま活きています。

 以上のような現状により、量産型エリートに乗れる不登校・引きこもり当事者は、特段の心配は不要。適度に不登校や引きこもりやって、適度に社会復帰すれば良いだけなので、かなりお手軽。言い方悪くすればチョロい話で、中学受験や高校受験で一定以上の学校へ通っていた子なら、ほぼこれだけで解決したりします。

 逆に言えば、この量産型エリートに乗れないケースはかなり厄介。年齢が30を超えてる場合や、基礎学力が著しく低く修正困難な場合、対人関係の構築に極端な問題を抱えている場合等は、通常の就職ルートに乗るしか手がありません。

 ただ、この通常の就職ルートは、割の良い仕事から先に埋まるため、不登校・引きこもり経験者が、旨味のある仕事にありつける可能性は極めて低いと言って間違いないでしょう。

 これまでの実例では、所謂「職人的技能」がある者や、「一点突破型の才能」があって起業する者、親族関係の「縁故採用」を利用した者程度しか、量産型エリートに匹敵する立ち位置を得たケースは無く、それ以外は、ほぼ全てが不安定な労働環境と低賃金での就職が既定ルート。「無能力が引きこもりを長引かせる」の根拠の一つです。

 これは基本変わらない現実なので、いかにこの状況に陥らないよう先手を打つかがキーになります。

○若いうちに動け
○勉強はしておけ
○人付き合いは大切
○金稼げる仕事に就け

のような当たり前を、極力早期に実行することが要でしょう。

 不登校・引きこもりは通常ルートから逸れてしまうため、どうしてもキテレツな人生を模索する人が多いですが、客観的に見る限りほぼ失敗している上、何より経済的自立が確保出来ていません。「馬鹿の考え休むに似たり」ではありませんが、下手な知恵を巡らすよりは、早々に頭を切り換えて、パッケージ化された既定ルートに乗ることをお薦めします。

不登校・引きこもり雑感9

 コロナ不況、確定化してきました。秋口以降の動きが本格的に怖いですが、どうしようもないので、従容として受入れるしかありませんな・・・・・・。

 最近、医療系学部と理工系学部とで、進路先に悩むケースが増えてきました。本人的には理工系に関心あるけど、就職のこと考えて親御さんが医学部推奨するケースなんかは、昔からのあるあるネタですが、経済学部から情報系学部とか、農学部から工学部とか、不況に強い学部へのスライドが見て取れます。

 基本、不登校経験者は、手堅い資格ある業種でないと、大体後で路頭に迷います。迷わなくとも、生活水準はダダ下がります。もう何十年も続いてることなので、これは変わらんです。コミュ障の文系進学とか、ほぼ自殺行為。

 ただ、このコロナ不況の流れを読める子ばかりじゃないのが、頭の痛いところ・・・・・・。野生の勘とは言いませんが、今立ち止まって思考停止してるのって、普通にカンの悪いバカですからね。隠さず言いますけど。最低限、バカやってることは理解して貰わんと。こっちが協力したくとも、そこさえ分かってないと、どうにもならんです。

 それと、不登校・引きこもり関係者は、繊細さに価値見出す人多いですけど、これからはそんなものクソの足しにもなりませんよ。これまでもなってなかったですが、何となく「繊細さ大切」みたいな業界特有の雰囲気で許されてただけでね。40だ50だ過ぎの引きこもりおばさんとか見てみなさいな、繊細な自分に溺れた、薄っ気味悪いの沢山いますから。百聞は一見にしかず。

 ちょっと前、「労働者階級風情の自分が、教養だ何だなんて、烏滸がましいってことですよね。まず、金を手にするための技術が先決で」みたいなこと言ってた子いましたけど、本当にそう言うことよ? 金が無いのは、首がないのと同じ。自分の身もろくに維持出来ないのに、繊細もメンタル豆腐もない。助ける人達の余力も無くなり、「メンタル弱い? は? なら死ねば?」が段階的に近づいてきてるのに、まだ繊細云々言ってるのは流石に阿呆です。

 生きること考えたら、繊細さなんてチープなものは全放棄し、打たれ強さにパラメタ全振りする位の気持ちでいなさいってこと。生命を優先するのか、木っ端程度のこだわりを優先するのか、良く考えることですよ。

ワイン雑感4

 大変ありがたいことに、今の日本で質の良いワインを手に入れるのは、案外容易。その辺のコンビニでも、それなりの品質が確保されているし、スーパーの低価格帯ワインでも、デイリーユースなら困ることも全くありません。

 ただ、例えば1,000円程度のチリ産カベルネより明白に一段階上のものを、同じカベルネに絞って、本場ボルドーで見つけようとすると、ちょっと難しい。確かに、3,000円前後で当たることもあるけど、これはこれで賭け。失敗したときの心理的ダメージは結構大きい。

 となると、それなりに名の知れたモノを選ばざる得ないわけですが、そうなると、安くても10,000が最低ライン。ちょっと……ね。

 というわけで、品種を変えて楽しむ方が、結果的には安上がりになるわけで、「1ml/円」の私は珍しい品種探しに走るわけですが、最近のまずまずヒットが「アジロンダック」。山梨では、結構普通に見かけるものです。

 見た目一発で「甘いよ!」と自己主張する子供のようなワインですが、自分の飲んだ醸造所のものは、ベタベタな甘さはなく、風味程度。毎日飲むには飽きる気がするものの、定期的に欲しくなる分かりやすいテイストです。

 重苦しいワインが苦手な女性には結構お薦めで、自分の周囲の女性陣からも好意的評価でした。

 これからも、面白い品種が増えることに期待!

 

 

引きこもりの「介護してた」は本当か?

父の遺体放置に年金不正受給で逮捕、「引きこもり」58歳息子の複雑な胸中

 この記事とか分かりやすいかな。引きこもりが親の死を隠して年金を不正受給する場合、比較的多い言い訳が「介護してた」。

 まあ、ありがちな回答だけど、これ、引きこもり当事者のカモフラージュとしては、非常に賢いと思う。「親の介護なら仕方ないよね」という言い訳が立つし、多くの引きこもり当事者が求める「心優しい自分」像を演出出来るから。しかも、年金チョロまかしてても「心優しい自分」の印象があれば、裁判で情状酌量の余地が狙える。まさに一石二鳥な戦略。あっぱれですな。

 でも、要点はそこにはないし、別に記事の容疑者をコレで叩くつもりもない。大切なのは、「本当に介護してたのか?」ってこと。

 自分も、介護関係の実務やってる人達からよく話聞くけど、介護ってどこまでも人間対人間なので、本当にコミュ力必要な業界。現場は勿論だけど、ケアマネさんやら訪問介護のスタッフやらに加え、医療関係者との連携も必要で、円滑な介護が出来る人は、様々な意味で一定以上のレベルがある。日常的な買い物や、何かあったときのご近所付き合いもそうだけど、コミュ障で容易に捌けるものではない。

 そこで、「引きこもりが親の介護してた」とか聞くと、普通は二つのことが思いつく。

1:そもそも別に引きこもりではなく、生活様式がそれっぽいだけ
2:介護など嘘。何もしておらず、ただその場を誤魔化そうとしただけ

 どちらなのかは、すぐ分かる。介護保険に関与しているスタッフなど関係者に確認し、その「引きこもり」の日常の様子を聞いてみれば良い。実際に介護していた1のケースなら、誰かしらスタッフとの交流がある。しかし、2のような嘘つきの場合には、スタッフが誰もその引きこもりを認知していない。「そんな人いたっけ?」とか「いるのは知ってるけど、ほとんど見たことない」という反応が返ってくる。嘘つきは、すぐバレる。

 試しに、訪問介護とかの介護士さんに聞いてみると良いですよ。引きこもりは、まず介護の手伝いしませんし、手伝いどころか家事さえしない方が普通です。「親の介護してて」なんて引きこもりがいたら、まず先に疑ってかかるべき。

 改めて、上記記事の内容が真実なら、記事の息子は1のケース、つまり最低限の社会生活は維持出来るレベル。でないと、そもそも買い物も介護の連携も何も出来ないし、早々に父親も死亡していただろうから、最低限介護はしていたはず。(まあ、本音を言えば、11年母親死亡で父親が12年死亡だから、実際は、父親の介護なんてやってない可能性も結構高いですけど、それはまた別の機会に。)

 となると、要は「父親の死後、仕事をしたくなかった」というのが本音で、死亡した親の年金流用は、「仕事をしたくなかった」の結果でしょう。

 ここで問題なのは、最低限の社会生活は営んでいるのに、「仕事をしたくなかった」を理由に、年金の流用をする人間の姿勢。少なくとも、父親死亡の段階では、まだ子供は50になるかならないかの段階で、「高齢で求人ゼロ」などという状況ではない。2012年前後は、失業率は低下し、有効求人倍率は年々上昇していた時期なので、仕事が無いのでもない。単に「経験が乏しく、痛い目に合うことが分かっているから、やりたくなかった」が真実でしょう。

 「出来ない」と「やりたくない」は全く別。「やりたくない」を「出来ない」と表現する当事者は珍しくもないですが、「やりたくない」を認めると、社会が破綻する。誰だって、日々の仕事なんてやりたくないし、多少の我慢を踏まえて生きている。正直に言えば、自分だって仕事なんかしたくない。でも、そこは「義務」として認識している。

 結局、この息子は「やりたくない」というワガママを突き通した結果、詐欺に繋がったわけだけど、それはそれで自業自得。表層だけ読めば、「父親の介護を献身的に行い、社会性を喪失した可哀そうな弱者」。しかし、そもそもこの息子の場合、青年期から仕事やりたくなくて、実際やってこなかった現実があるわけで、この記事のように、キリギリスに肩入れするのはどうかと思いますな。裁判は騙し合いの世界かも知れないけど、 少しは背後を読めよ、と。まあ、 メディアは書く書かないを自由に選べますから、背後を読んだ上で書かないだけかも知れませんけどね。

 親の年金の不正受給は、どうせこれからどんどん増えます。この記事の筆者なんかは当事者側の主張に立って論じているし、引きこもり保護を述べたいんだろうけど、結局は不正の片棒担いでるだけ。コロナで社会の余裕が無くなっているなか、更に一般人の負担を増やす行為を「当事者に配慮して」の一言でチョロまかすのは、メディア関係者としてどうなのか。社会全体の利益をよく考えて、執筆して欲しいところです。

不登校と遠隔授業の弊害

 現在、コロナウィルスの流行をきっかけに、各教育機関は遠隔授業へと段階的に舵を切っています。

 元来、教育システムとは、机上の学問のみならず、人間性の涵養を目的とした集団活動を内包しているものであり、効率性も相まって密集形態はその必然です。しかし、こと感染症が課題となった現状では、密集形態そのものが忌むべき存在となっており、物理的距離の確保は最優先。涵養を放棄してでも、生命を優先しなくてはならない状況へと移行しつつあります。

 そしてこの傾向は、不登校業界でも何ら変わりありません。

 一般に、不登校経験者は人間関係が苦手です。視線が気になったり、集団の会話に入れなかったり、団体行動が嫌いだったり。理由は様々ですが、好んで人間関係を構築しようとするのは少数派です。

 そのため、不登校経験者への学習指導は、勢いマンツーマン形式か、少人数の個別対応形式が中心となります。人間関係が苦手なら、集団授業に適応しにくいのは自明のことですし、指導者側の目の届きやすいこの形式が、事情に即応した正しい判断とされるのも至って自然なことです。実際、CARPE・FIDEMも、発足時から継続的に個別対応指導を組み入れています。

 その一方で、少人数形式には、「衆人環境への適応能力」なる不登校経験者における最大の問題点を、未解決のまま素通りさせてしまう致命的な欠陥があります。学力的問題は解決したものの、人間関係の不自由が原因で、「不登校→個別指導→大学→中退」となる事例は毎年少なからず存在し、不登校教育の現場では常時課題となり続けています。

 恒常的に集団との接触を心掛けていれば、段階的に緩和されるこの種の問題でも、指導側による「手加減込み」の人間関係しか経験が無ければ、当事者は0成長のまま大学での環境に応じなくてはなりません。それに耐えられない者はひっそりと中退し、自己否定と後悔のみを抱えて振り出しに戻ります。無駄とは言いませんが、価値の乏しい行為とは言えるでしょう。

 遠隔授業というその人間相互の物理的関係を断ち切る環境は、少人数形式指導を更にもう一段階乗り越えたレベルで、対人関係能力の構築速度を低下させます。環境が不登校経験者にとって望ましくなればなるほど、彼等の人間性涵養の速度は反比例して衰えていきます。

 今や少人数形式を超え、モニター越しで物理的接触0の空間へと移行した遠隔での指導環境は、 緊密な関係への苦手意識があるが故に、今後より一層積極的に受入れられる可能性があります。誰しも、居心地の良い環境を望むものですから、不登校教育業界における遠隔授業の拡大も、何ら不可思議な話ではありません。

 無論、社会がこのまま永続的に物理的距離を最優先とするなら、それでも影響は軽微かも知れません。しかし、過去のいかなる感染症も人間の叡智により克服されている現実を見れば、帰納的に、この現状もいつかは元の状況に戻るものと推察されます。そのとき、取り過ぎた「距離」がどのように作用するかは、火を見るよりも明らかです。

 CARPE・FIDEMは、設立時より集団性授業をその中核とし、個別対応はサポート利用に制限してきました。学力の向上と同時に、不登校経験者には、別に学ばなくてはならない「他者を知る」という行為が求められています。それ故、 大学進学後や就職後の人生を考えれば、 雑多な人間の集まる衆人環境は、進学前に慣れておかなくてはならない必須項目だからです。

 学問自体、人間の認知を通して自然や社会を見つめるもの。人間を拒否して、学問のみを推進するなど、土台不可能な話です。学ぶことの前提には常時他者がおり、他者とは指導者のみならず、人生を併走する友人でもあります。他者の存在が希薄化し、情報移動のみが存在するなら、それは、教育における最も重要なテーマの「何か」が置き去りにされているのではないでしょうか?

 実験的指導である遠隔授業は、時間と空間の節約だけでなく、経済的負担も軽減させる素晴らしいシステムです。その一方、本来必要な学びの「何か」を失わせる恐ろしい側面も持っています。

 利便性にばかり目が向きがちですが、平行して喪失されるものこそ、不登校経験者にとっては最も大切な要素。安易な居心地の良さは、いつかどこかで自分を裏切るものと考え、私自身への戒めも含め、お互い十分な注意を心掛けましょう。同時に、「他者を知る」という行為における、現実に即した代替手段の構築を目指したいと思います。

 

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