不登校・引きこもりからの大学進学塾

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不登校・引きこもり女子は、キャリア・パスとライフイベントの年次計算を大切に

昔のCARPEでは考えられませんが、どういうわけか、今年は女の子の参加者比率が例年より高めです。男子校のノリでアバウトにやっていたのが、段々と共学っぽくなってきていますが、これも時代の流れでしょうか。

ただ、個人的にはこの傾向は良いことだと思いますね。男女雇用機会均等法が出る前なんか、高等教育を受けた優秀な女性に対しても、

「女はコピーとお茶くみでもしてろ」

みたいな職場はザラでしたし、それが普通という風潮もありました。女性の側ではおかしいと感じていても、違和感を感じる男性は逆に少なかったのでしょう。

しかし、今では、

「優秀な女性は、キャリアを活かしてドンドン社会に出ましょう」

という形に潮目が変わってきており、共働きを普通と考える男性の方が主流派になっています。

実際、私が見る限りでも、教育水準が高くキャリア形成のしっかりしている女性は、何のかんの言っても愉しそうですし、一緒にいて面白い人が多いです。不登校・引きこもりラインでも、「経済的自立を求める女性&それを認める親御さん」という良いコンビが生まれてきているのかも知れませんが、大変結構なことだと思います。

 

ただ、CARPE・FIDEMへ面談にいらっしゃる女性陣には必ず言っている話ですが、「キャリアパスとライフイベントのバランス」、特に結婚と出産のタイミングについては注意が必要です。

一般論ですが、現在の平均的な大卒女性のライフイベントの節目は、大筋以下のようなルートを辿っています。

大学入学(18歳~20歳前後)

大学卒業&就職(22歳~24歳前後。医・歯・薬・獣or院卒の場合は25歳前後)

結婚&第一子出産(30歳前後)

家の購入(40歳前後)

以上のように、取り立てて大きなトラブルが無ければ、大筋30歳前後で結婚と出産の流れに乗ることになります。

30歳が基準となっているのは、恐らく出産に伴うダウン症等の障碍発生率が30歳を境目にして上昇傾向になるためと推察されます。よって「30歳前に子供を授かっておきたい」という声は、定量的に見ても妥当な判断と言えます。

ただ、不登校や引きこもりがあると、この年度計算が後方にスライドする、つまり、全体的に全てのイベント発生が遅くなる可能性があります。無論、不登校や引きこもりでも、早々に勉強をして「18で大学、22で就職」のような人もいるにはいますが、現実的には入学が20歳以降、就職となると、30過ぎになることも珍しくありません。(それ故、専門職関係でないと苦しくなるのですが。)

これはつまり、不登校や引きこもりが原因で各イベントが遅れるにつれ、「結婚」⇒「出産」という大きなイベントの一区切りとなる30歳までの期間が縮み、結果的にその機会が減少することを意味しています。分かりやすく言えば、不登校や引きこもりが原因で、結婚や出産が困難になるということです。

無論、

「自分は一生独身で終えるんだ」

という人は何でも構わないのですが、如何に生涯未婚率が増えたにしても、やはり社会全体では結婚する人達の方が主流派です。これは、「不登校や引きこもりが増えた」なんて言っても、所詮不登校も引きこもりも、社会全体の中ではマイノリティに過ぎず、一般視点からすれば、主流派になり得ないのと同じことです。

それ位「普通」というものは根強く、「普通って何?」のような哲学的命題をかましても、圧倒的な「普通」の前にはほとんど意味を持ちませんし、結局はそれを意識しながら生きるしかありません。必ずしも「普通」の人間になる必要はありませんが、「普通」を無視して生きることもまた困難です。

以上のような事情は、男性と比較して女性の方によりシビアに作用します。私も、「男の子はある程度適当でもいいけど、女の子は少し現実的に社会を見た方が、結果的に楽」とアドバイスしていますが、これには上記のような事情があるためです。

 

とは言え、反発を食らうこともあります。このような話を引きこもり当事者の居場所的なところで話をしたところ、女性当事者から

「男女差別では?」

「男目線の発言。何も分かってない」

のように言われたことがありました。あまり聞きたくない話題だったのかも知れません。

しかし、実情がそうなっている以上、それに合わせた具体策を講じる方が幾分誠実かと思いますし、生物学的な部分については、どんなに医療技術が発達しても、自然な流れを変更することは困難です。

或いは、男女問わず、

「自分は彼女もいらないし、結婚もしない」

「子供をつくるつもりなんてない」

のような意見も自然と出て来ます。しかし、同様のことを言っていた卒業生達が、大学在学時に平然と彼女をつくり、引きこもりだったことも、自分達の過去の発言もすっかり忘れ、あっさりと結婚していく様を見ると、現在の意見が未来永劫続くとは考えにくいです。人間は、良くも悪しくも「変化」する生き物です。

 

話題を戻しましょう。種のシステムと現在の社会システムの間に競合する部分がどうしても存在するため、女性の生き方は概して時間に追われがちなものとなります。そしてその事情は、何らかの遅延のある不登校や引きこもりを経験した女性に対して、より一層大きな課題として立ち現れます。

しかし、全ては「早い」か「遅い」かだけの話です。遅れたら遅れたなりに戻せば良いのですし、多少の遅延は問題にもなりません。自立を拒否したり、無責任な生き方を続けなければ、それで済む話です。

CARPE・FIDEMも15年近くになりますが、専門職系の学部へ進学した卒業生の中には、将来的な所得の保証があるため、在学中に同様の経歴の人と結婚してしまう例も出てきています。この事例は、正にその「ライフイベント時短作戦」の成果と言えるでしょう。早ければ良いというものでもありませんが、社会変化を見据えた上手い戦略だと思います。

概して、今は男性より女性の方が元気です。「子供と女性が元気な社会は良い社会だ」なんて話もどこかで聞きましたが、私も本当にその通りだと思います。産業革命以降、蒸気機関を振り出しにして効率的なエネルギー変換技術を手にしたことから、人間は「人力」「牛馬耕」のような、生物由来の力学的エネルギーに依存する社会から脱却し、「新奇」と、それを再構成する「システムデザイン」の世界へと舵を切っています。そしてこの環境は筋力に依存しないが故、女性にとっても非常に活躍しやすい空間となっており、図らずも男性中心時代の終焉を如実に提示することとなっています。

私は、動きの良い女性から多くのことを学んできたためか、女性の経済的自立と、男性に依存しない生き方を強く推奨していますが、この辺の事情は、仮に不登校や引きこもり等、何らかのルート欠損がある人でも同じことだと思います。寧ろ、欠損があるからこそ、経済的自立は必要だとさえ感じています。親に依存出来るのは子供のうちだけであり、これからの社会が男性依存型社会でないことを考えれば、自分で立ち上がるのが道理ですから。

現状、女性にとって面倒な部分は、「出産」等の生物学的側面によるものが大きく、これを変えることは当座不可能かと思われます。しかし、それ以外の部分では、かなりのことが現実的に可能となっています。

不登校なり引きこもりなり、引っかかることは誰にでもありますが、立て直しを上手く、気持ちの切り替えを素早く行い、元気な女性が増えることを、私は期待しています。きっと、それが「愉快な社会」への第一歩となることでしょう。

禍福はあざなえる縄のごとし

こんなこと言うのも何ですが、今年は色々と気持ちが楽です。本当に。

ツイてないときは、本当にツイてない。何をやっても上手く行かないし、いっその事寝てた方がいいんじゃないかと思って寝ていると、そんなときに限って、義務的作業が次々に来たりする。そんなことありませんか? 私も春先まではそんなことの繰り返しで、兎に角大変でした。

ただ、何のかんので頑張りの成果が数ヶ月してから実を結び、最終的には、10年近く懸案だった問題が無事に円満に解決し大発展を遂げただけでなく、その他の課題も次々に成果を出し始めました。今は全てが良好に転じ、ここまで安定的で平和なのも久しぶりです。

ただ、これには手助けをしてくれる卒業生達の存在があります。

特例を除き、CARPE・FIDEMは卒業生しか採用しない「縁故主義」の会社です。これは、「不登校」や「引きこもり」という性質上、運営の実情が分かる人でないと問題解決が難しいから、という現実的判断から始まっていますが、一方で指導レベルの高い卒業生は医学部に進学することが多く、地方へ流れてしまう結果、指導側の総数に限界がありました。(結果として、私が全科目教えることになるのですが、いい加減なことも出来ない以上、それはそれで仕方ないことです。)

ところが、ここ最近は関東圏の医学部へ進学するケースがちょくちょく出始めた関係で、段階的に指導を分散させ、私自身は取りこぼした単元のバックアップにまわることが可能になってきました。今後も、医学部だけでなく、東大や早慶他、比較的指導側にまわりやすい立ち位置の子が増えてくれることを期待しています。

色々な意味で、多くの人達の手助けを得られるようになった関係で、今年の運営は例年に増してスムーズかつ(私にとって)楽なものとなりました。これなら、保留になっていた別事業の方も進められるかも知れません。関係者の方々、今後もよろしくお願いします。

苦しいときほど踏ん張りをきかせるのが信条ですが、ようやくそれも結果が見えてきました。今の「楽」がどれだけ続くかは分かりませんが、今後も、これが続くことを祈って。

「マイルド不登校」雑考

少し前にもどこかで書きましたが、昔の不登校と違い、今の不登校には悲壮感がありません。確かに不登校自体は問題でしょうし、中には大きなトラブルを抱えているケースもありますが、総合的には問題のレベルが軽度になっています。

総数自体は相変わらず多いものの、程度が軽くなっている点を鑑みるに、不登校問題は改善の方向に向かっていると思われます。先の進学・就職ルートがある程度見えるようになってきたため、不登校そのものが矮小化しているのかも知れません。

広告代理店の博報堂が、つり目リーゼントの古いガチンコヤンキーと比較して、地方の「ゆるいオラオラ系」を「マイルドヤンキー」と定義したのは5年程前ですが、不登校についても、昔の絶望的不登校と比較して、「何となく不登校」を「マイルド不登校」と定義しても良い気がしますね。

昔の不登校は、壮絶な「いじめ」のような、誰が見ても「すぐ逃げた方が良い」とアドバイスしたくなるようなものが比較的多く、現場にもそれなりの緊張感がありました。しかし、今の不登校の子達の話を聞くと、

「何となくネトゲやってたら起きられなくなっちゃって……」(生活習慣+仮想空間系)

「学校は行ってないけど、友達とは結構繋がってます」(ラインあるなら、学校って意味なくね?系)

「行っても良いけど、うちの学校馬鹿多くて話しててつまらない」(頭の回転良すぎる系)

のような例が過半数を超え、昔のような「逃避的不登校」という形式から「選択的不登校」へと姿を変えています。

「逃避的不登校」は、概して学校環境に押し潰されかけている、「消極的不登校」です。学校がまともなら通いたいと思っているものの、友人関係やクラスの空気、学業不振、或いは教員の姿勢など、何らかの要因で学校へ行けなくなっているケースです。旧来型の不登校は、こちらに該当します。

一方で「選択的不登校」は、学校で大きなトラブルはないものの、登校に対するメリットを見いだせず、他の環境を模索している「積極的不登校」です。かつて、通信設備が脆弱だった時代には、眼前で会わないとコミュニケーションが取れませんでした。しかし、現在はPCなりスマホなりで通信環境が非常に良いため、体を動かさずとも人間同士のリンクが得られるようになっています。そのため、学校という物理的環境に「移動」する意味を見いだせなくなっている子達が出現しているのだと思われます。

具体的トラブルがないため、概して積極的不登校は「怠け者」扱いされがちですが、事実は必ずしもそうではありません。大人と比較して、子供は新しい環境に対する感受が巧みで、彼等の動きは、「怠惰」というよりは寧ろ「適応」に近いものがあります。

核兵器の開発も、最初は実際に核実験を物理的に行うことで進められていましたが、データが蓄積されるにつれ、シミュレーションだけで開発が可能となっています。これと同様に、学校という物理的空間も必要性が乏しくなり、物理性を必要としない仮想的なデジタル空間だけで、ある程度ニーズが満たせるようになってきたのでしょう。彼等は、その変化に巧みに適応しています。

ただ、仮想空間だけで十分かと言えば、それもまた違います。確かに、データのやり取りだけなら楽ですが、人間は生身の肉体から切り離して生活することが出来ません。また、自分の思考だけで人生に上手く伍していけるわけでもありません。家に留まれば体も衰えますし、人と会わなければ、小さな所作一つ取っても不備が生じ、負い目を感じるようになります。

今でも各種メディアを見ていると、「不登校」=「かわいそう」「助けてあげなきゃいけない存在」のように扱われていて、寧ろそれを促すような傾向さえありますが、個人的には、この「マイルド不登校」の流れを見ている限り、そんな扱いは必要ないと思っています。情報提供は必要ですが、大人がアレコレお節介かけるほど、最早不登校は大きな問題ではなくなってきている気がしますね。

多少の注意点はありますので、それはまたどこかで書くことにしますが、要点をまとめると、

「不登校も普通の生き方になってきて良かったね」

ということです。

お家再興と個人主義

「悠君、でも何でそんなにおじいちゃんおばあちゃんの墓参りに来たがってたの?」

GW中、母方の祖父母の墓参りに行った際、伯母さんからポロッとこんなことを言われました。最近は、30代そこそこで、わざわざ遠方まで出向いて墓参りする酔狂な人も少ないからでしょうかね。

「いや、そんなスゴい理由はないです。単に傲らないように。人間、何事も上手く行ってるときは傲るので、年に何回かはきちんと頭を下げようと」

「は~。偉いねえ」

「いえ、道徳的観点からではなく、純粋に自分の利益のためです。傲ると、結局ロクな事が無い(笑)」

仕事半分ながら、今年のGWはそんなこんなで、しばらく隔たっていた親族関係者を巡る部分が多々ありました。母方の伯母さん夫妻と、その娘さん(私から見れば従姉妹でしょうか。)からは、母方の家系の様子を振り出しに、戦前戦後の苦労話や、高度経済成長期の変化の速さなどを聞きましたが、話題には事欠きませんでしたね。

「おじいちゃんがもう少し生きてくれていたらねえ……」

は私の母の口癖ですが、それでも尚、祖父母が繋ぎ合わせたこの関係は得難いものだと思います。

思い返せば、私は総合的に見て「人」に恵まれた人生を送っています。

適切なアドバイスと、精神的・経済的安定を保証してくれた父母。

時宜に合わせ、反目と協力と調和を共に学んだ弟妹。

社会での立ち位置を、別視点から教えてくれた親戚。

歳を重ねても、今なお途切れることのない友人達。

アレコレ言いながらも、何やかんやで一緒にいる妻。

私は、基本的に保守的な人間です。新時代を志向した「自立と責任意識の無い個人主義」が、結局節操の無いヒッピーまがいの安いっぽい文化と、修復不能なまでの家庭間の分断を生み出した様を見ているので、どうしても行動がその逆に動きます。

そして、その逆の行動には、何らかの「縁」を基盤として、多少の不自由を抱えながらも、質の高い人間関係が形成されることを知ってしまった。今回の旅行もまた、それを再確認させるものとなりました。

より良い人の周囲には、より良い人々が集まります。周囲がおかしいなら、自分も大なり小なりおかしいですし、それが嫌ならより良い環境へ場所を変えれば良い。変えないなら変えないなりに、その人もおかしい人々の仲間の一人ということなのでしょう。変えられないというのは大体が言い訳で、変える気のある人はいつだって変えています。

多少の責任意識と、多少の自立意志があれば、自然と好ましい人間関係が形成される。今ある環境もまた、自分が作り出したものであると再認識出来、大変満足な休暇となりました。この点だけは、自分で自分を評価したいところです。

いつもニコニコしていること

 社会人になってから気付いたことだと思いますが、能力面で総合的に優れ、安定的な人は、大体いつもニコニコしている気がします。

 簡単なことのようですが、「いつもニコニコ」は非常に難しいです。人間誰しも、感情の起伏があります。睡眠不足のときもあるでしょうし、嫌なことばかり続いて落ち込んでいるときもあるでしょう。愉しいことを前にすれば明るくもなりますし、試験を前にすればピリピリもするでしょう。

 しかし、どのような状況でも「いつもニコニコ」しているとするなら、これは中々大したものだと思いませんか? 推察ですが、このような人は、

1:いつも心に余裕を持つことを心掛けている。

2:トラブルの対処が巧みである。

3:物事の優先順位付けが適切である。

4:陰鬱は無礼なことだと理解している。

5:自分を肯定的に見ることが出来る。

等の条件を粗方満たしている人ではないかと思います。

 私は、自分自身にこれといった長所が無いためか、自分よりも優れた人が大好きで、優れた部分があると積極的にマネをするようにしています。ただ、この「いつもニコニコ」はなかなか難しい。頑張ってみても、どこかで微妙に欠損が出ることが多いです。

 理由は良く分からないのですが、この「いつもニコニコ」出来るひとは、優秀なキャリアウーマンの人に多く見られる気がします。女性特有の耐久性がそうさせるのか、はたまた最近の女性が兎に角優秀なのか判別はつきませんが、周囲に対して非常に良い影響を与えていることは間違いありません。

 難しいことではありますが、私も「いつもニコニコ」出来る人間になれるよう、日々心掛けたいと思っています。

 

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