不登校・引きこもりからの大学進学塾

ヤケクソで応用クラスの合宿をします。

山梨や千葉の設備は、元々合宿前提の環境なのですが、CARPE・FIDEMには本部教室にも宿泊出来る環境があり、たまに自習や飲み会で終電逃した子が泊まったりします。

で、台風で電車も「止まる」ことが確定しているようなので、

「どうせ帰れないんだったら、授業休みにするんじゃなくて、泊まりがけの合宿しない?」

との意見を受け、急遽応用クラスの合宿を実施することになりました。

微積分学は大筋進度に問題無さそうですし、内容はどうにも本番で嫌がられる「整数」に。高レベルなものも含めてひたすら三日間整数ばかりやります。これは中々に死ねるな、ウン。

そう言えば、前回の駿台全国模試でも、既に理系科目は東大と医学部合格レベルなのに、英語だけポシャった人が何人かいましたし、英語もやりましょうかね。既に神戸大の読解は実施中ですが、もう一段階上げたいところです。判定模試も近いしね。

何と言うか、今年の応用クラスは理数は強いのに、文系科目に手を抜く子が多い気がします。基本的に、受験上位層は「文理問わず出来て当然」みたいな風潮ありますので、文系科目も侮らないように気をつけたいですね。

何かを背負わないと、人は成長しない

今でも工夫はしていますが、私は人の優れた部分を見つけると、可能な限り自分の才として取り入れることにしています。もっとも、私の能力には限界がありますので、実際にどの程度まで実行出来ているかは不明ですが、少なくとも、日々そのつもりではいます。

引きこもりや不登校とは関係ありませんが、30歳を前にしたときに、たまたま2人の旧友と出会ったことがあります。片方は結婚し、子供が二人いるお父さんで、既に家も買っていました、片方は未婚で、恋愛経験も無く、実家暮らしでした。学生時代には何ら差を感じなかった二人でしたが、30を迎えた両者の考え、立ち振る舞い、展望、現状認識には明白な差があり、後者が優れている要素は、何一つとして存在しませんでした。

見えない何かが最初から違っていて、それが加齢と共に具体的な差異として表面化したのか、或いは、偶然による行動の違いが、等しかった両者の考えを根本から変えたのか、因果は定かではありませんが、優劣については誰の目にも明らかなものがありました。

不登校や引きこもりでも優れた才覚を示す人物は確実に存在しますが、それはほぼ全て若年期にのみ認められるもので、長期高齢引きこもりで優れた才覚を残した人物には不思議なほど出会いません。

優れた人間は先に引きこもりから抜けてしまい、澱(おり)のような存在だけが残るからそう感じるのか、或いはどんなに優れた才覚も、引きこもりという期間がその才覚を押し潰すに十分過ぎる時間なのか、こちらも定かではありませんが、優劣については誰の目にも明らかなものがあります。

ただ、

「何かを背負っている人間程、人間としての成熟度が高く、背負われている人間程、人間としての成熟度が低いこと」

だけは十分に分かっています。

優れた人物ほど「背負う」ことに積極的で、劣った人物ほど、「背負われる」ことに終始します。自立を意識して日々努力している若年層引きこもり等が前者で、生活保護やベーシックインカムの話ばかりする長期高齢引きこもり等が後者の具体例と言えますが、恐らく、この点は誰が見ても同様に判断するでしょう。

とは言え、上記事実は、私自身にとっての戒めでもあります。幸か不幸か、今の私は総合的に見て非常に安定化し、特に大きな不自由もなく生活が出来、環境も恵まれていて、時間不足を除けば日常に対し何一つとして不満がありません。それが逆に、次に抱えるべき「大きな何か」を忘れさせています。これは大変愚かしいことで、程度の低さから言えば自立を拒否する引きこもりと何ら変わりありません。

どのような立場にいようと、成長は何かを背負うことで生まれるのは事実でしょう。今抱えている何かが軽く感じるようになったのなら、次の背負うべき何かを探しに行くのが、本来のあり方なのかも知れません。そして何を背負うかで、人そのものが大きく分岐する現実もまた、生きる上での妙味と考えます。

お盆休みを控えお墓参りの季節になりましたが、一年の成長も反省も含め謙虚な姿勢で、今は亡きご先祖様方に報告したいと思います。

 

親族の付き合い 淡きこと水のごとし 忘却と共に流れ行く

理由は良く分からんのですが、私の親族は父方も母方も何故か妙に数が多くて、少子化とか何とかが話題に出る昨今にもかかわらず、10人単位で血縁関係者が集まることが度々あります。別に、変な宗教でも何でもないのですが、年に一度は50人規模での集まりもあり、毎度毎度会う度に、「誰だか知らないけど、薄く血の繋がりがあるらしい人々」と、老若男女問わずお酒を飲んで美味しい食事を囲んで、愉しくワイワイ騒いだりします。

いつだったかも、誰とも知らん叔父さんズ×2(推定60歳過ぎ)と自分(33歳頃?)に、高校出てどこかに留学予定の少年(18歳?)に、謎のニート20代女性と、どこだったかの奥さん(多分40代)とで、小学生のガキんちょが走り回り、中学生達がカードゲームで騒いでいる中、年々増える誰かの赤ん坊をあやしながら、

「各年齢毎に済ませておかなくてはならない重大事項について話し合う会(微エロ有り)」

をテーマに飲んでおりました。

始めは穏当だったのですが、途中から何かもう無茶苦茶で、お酒の入った姐さん達2人が、高校生の子を囲んで、

奥「あなたねえ、そういうときはやらんとダメ! やらんとダメなの! 女を分かってなかとよ~本当にもう~!」

と、一体何をやると言うのか、兎に角高校生に絡む絡む。

謎「そうそう。引いてばかりで、『心の傷』とか言っちゃう男は根性腐ってるわ。マタンキついてんのか、お前」

セクハラとかいうワードは、ここでは基本的に意味を持ちません。

少年は少年で、

少「そげん言っても、恥ずかしいもんは恥ずかしか! ババア共の意見なんか聞いてねえ!」

と、BBABBAと煽る煽る。

仕舞いには、叔父さんズと一緒に、チビリチビリと、「女性優位社会における男の苦悩と今後の展望」について語らっている私の方にも、何故かお鉢が回って来ます。

奥「ダメ! この子全然分かってない! 悠君からも言ってやって!」

私「お、おうおう。(少年の方が分が悪そうなのを感じ取って)……そうだそうだ! キンタマついてんのか、お前! このタマナシが!」

少「仲間じゃねえのかよ!」

私「勝ち馬に乗るのが処世術だよ、君」

謎「分かってるねえ! 男だわ……って、そう言えば、アンタ見かけない顔だけど、誰?」

私「って言うか、お前こそ誰だ? ああん?」

と、こんなことが定期的にあり、数年後にまた会っては全て忘れていて、

「お前誰だ?」

「お前こそ誰だ。名乗れ」

を繰り返します。誰なのかもさっぱり分からないのですが、関係を持つ根拠はただ一つ。とりあえず、血が繋がっている人の関係者の誰か。

 

 

最近は家族の崩壊だとか、親類関係の希薄化だとかアレコレテーマになりますが、繋がっているところは繋がっているわけで、それも結びつきを大切にしようという気持ちがあるか無いかが全てのような気がします。

行く度に見かけて、いつも皆の世話を焼いているメガネの兄さんが言っていました。

「自分の親類は皆バラバラで、こんな風に集まることはなかった。奥さんの実家が、賑やかなところで嬉しい。これからもずっと続けて欲しいと思う」

個人の自由も大切なことかも知れませんが、人との関わりを減らし、繋がりを無くし、それが「自由」だなどともっともらしく嘯く者の惨めなこと。彼等の言う自称「自由」が、これだけ方々で断絶を生み、その弊害が明らかになる中、古き良き繋がりが生み出す豊かさこそ、自然と再評価され得るものなのかも知れません。

親族の付き合い 淡きこと水のごとし 忘却と共に流れ行く

引きこもりのウソ・ホントその2「引きこもりは本当に日々悩み苦しんでいるのか?」

単位時間に要点を集約させ、ストーリーを端的にまとめないといけない事情がありますので、一概に彼等を批判することは出来ないのですが、一般に流布している引きこもりのイメージは、かなりの部分でマスコミ関係者(テレビ・新聞・ネット他)が「作成」した要素が入っています。

具体的には、

〇親に暴言をはき、暴力を振るう危険人物

〇人生に苦悩し、社会との折り合いに悩む存在

〇インターネットに没頭し、現実世界から逃避する日々

等が多いでしょうか。別に間違っている訳ではありませんし、確かにその部分もあるのですが、「毎日毎日同じことが続くか?」となると、それはまた別の話です。

現実的には、仮に暴言をはき、暴力を振るう引きこもりがいても、家族の側で面倒なことにならないように何かしらの回避策を取ることが一般的で、連日続くケースは珍しいと言えます。また、仮に苦悩するにしても、普段は適当にぼーっと生活していて、折に触れて「俺はダメなやつだ……」「これからどうすれば……」となるだけで、本気で日々そんなことを考えている引きこもりはほぼゼロです。敢えて言うなら、最後の「インターネットに没頭し~」は、まあ間違いではないでしょうか。因みに、これは不登校でも実情はほぼ同じです。

つまり、所謂一般的な引きこもりイメージ像は、その象徴的状況だけがピックアップされたもので、実際の日々は、

「特にこれといったこともなく、適当な時間・好きな時間に起きて飯を食い、取り立てて何をするでもなく、間食ついでにゲームをしたりネットを眺めたり本を読んだりしながら、気がついたら夜になっていて、眠くなるまでまたゲームなりネットなり本なりでテキトウに時間を潰し、夜食つまんで眠くなったら気分に任せて寝る」

というのが実情です。「引きこもりの生活とは?」と問われれば、まず間違いなく大半が上記のような生活をしています。

現実的に引きこもりから抜けた元当事者の話をまとめると以上のようになるのですが、この生活で成長出来る要素などほぼ無いわけで、続ければ続けるだけ無意味な存在へ一直線となります。気をつけましょう。

と、言うわけで、「引きこもりは本当に日々悩み苦しんでいるのか?」と問われれば、それはほぼ100%嘘で、実際は漫然とダラダラ過ごしているだけ、というのが答となります。誠実に評価すれば、上記のような引きこもりイメージは、全時間数で言うと、どんなに高く見積もってもせいぜい10~20%程度で、大半の時間はダラダラしているだけの「思考停止状態」に消費されています。

 

結論:「暴力や人生に苦悩する引きこもり」とは、視聴率(閲覧数)を取りつつ、要点を集約して伝達しなくてはならないマスコミ関係者の、苦肉の策である。

2018年度夏期休業期間のお知らせ

平素は格別のご高配を賜り、まことにありがとうございます。

改めて、2018年度夏期休業期間について、以下お知らせ致します。

休業期間:2018年8月10日(金)~2018年8月20日(月)

尚、自習室は休業期間を通じ、全て通常通り開室しております。また、大学受験理系基礎・大学受験理系応用の補講は、別途授業にて連絡致します。

ご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。

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