現在、コロナウィルスの流行をきっかけに、各教育機関は遠隔授業へと段階的に舵を切っています。
元来、教育システムとは、机上の学問のみならず、人間性の涵養を目的とした集団活動を内包しているものであり、効率性も相まって密集形態はその必然です。しかし、こと感染症が課題となった現状では、密集形態そのものが忌むべき存在となっており、物理的距離の確保は最優先。涵養を放棄してでも、生命を優先しなくてはならない状況へと移行しつつあります。
そしてこの傾向は、不登校業界でも何ら変わりありません。
一般に、不登校経験者は人間関係が苦手です。視線が気になったり、集団の会話に入れなかったり、団体行動が嫌いだったり。理由は様々ですが、好んで人間関係を構築しようとするのは少数派です。
そのため、不登校経験者への学習指導は、勢いマンツーマン形式か、少人数の個別対応形式が中心となります。人間関係が苦手なら、集団授業に適応しにくいのは自明のことですし、指導者側の目の届きやすいこの形式が、事情に即応した正しい判断とされるのも至って自然なことです。実際、CARPE・FIDEMも、発足時から継続的に個別対応指導を組み入れています。
その一方で、少人数形式には、「衆人環境への適応能力」なる不登校経験者における最大の問題点を、未解決のまま素通りさせてしまう致命的な欠陥があります。学力的問題は解決したものの、人間関係の不自由が原因で、「不登校→個別指導→大学→中退」となる事例は毎年少なからず存在し、不登校教育の現場では常時課題となり続けています。
恒常的に集団との接触を心掛けていれば、段階的に緩和されるこの種の問題でも、指導側による「手加減込み」の人間関係しか経験が無ければ、当事者は0成長のまま大学での環境に応じなくてはなりません。それに耐えられない者はひっそりと中退し、自己否定と後悔のみを抱えて振り出しに戻ります。無駄とは言いませんが、価値の乏しい行為とは言えるでしょう。
遠隔授業というその人間相互の物理的関係を断ち切る環境は、少人数形式指導を更にもう一段階乗り越えたレベルで、対人関係能力の構築速度を低下させます。環境が不登校経験者にとって望ましくなればなるほど、彼等の人間性涵養の速度は反比例して衰えていきます。
今や少人数形式を超え、モニター越しで物理的接触0の空間へと移行した遠隔での指導環境は、 緊密な関係への苦手意識があるが故に、今後より一層積極的に受入れられる可能性があります。誰しも、居心地の良い環境を望むものですから、不登校教育業界における遠隔授業の拡大も、何ら不可思議な話ではありません。
無論、社会がこのまま永続的に物理的距離を最優先とするなら、それでも影響は軽微かも知れません。しかし、過去のいかなる感染症も人間の叡智により克服されている現実を見れば、帰納的に、この現状もいつかは元の状況に戻るものと推察されます。そのとき、取り過ぎた「距離」がどのように作用するかは、火を見るよりも明らかです。
CARPE・FIDEMは、設立時より集団性授業をその中核とし、個別対応はサポート利用に制限してきました。学力の向上と同時に、不登校経験者には、別に学ばなくてはならない「他者を知る」という行為が求められています。それ故、 大学進学後や就職後の人生を考えれば、 雑多な人間の集まる衆人環境は、進学前に慣れておかなくてはならない必須項目だからです。
学問自体、人間の認知を通して自然や社会を見つめるもの。人間を拒否して、学問のみを推進するなど、土台不可能な話です。学ぶことの前提には常時他者がおり、他者とは指導者のみならず、人生を併走する友人でもあります。他者の存在が希薄化し、情報移動のみが存在するなら、それは、教育における最も重要なテーマの「何か」が置き去りにされているのではないでしょうか?
実験的指導である遠隔授業は、時間と空間の節約だけでなく、経済的負担も軽減させる素晴らしいシステムです。その一方、本来必要な学びの「何か」を失わせる恐ろしい側面も持っています。
利便性にばかり目が向きがちですが、平行して喪失されるものこそ、不登校経験者にとっては最も大切な要素。安易な居心地の良さは、いつかどこかで自分を裏切るものと考え、私自身への戒めも含め、お互い十分な注意を心掛けましょう。同時に、「他者を知る」という行為における、現実に即した代替手段の構築を目指したいと思います。
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