不登校・引きこもりからの大学進学塾

2018年度大学受験理系応用クラスの準備授業が開始になります。

3月15日から、大学受験理系応用クラスの準備授業が開始になります。本来は4月1日からの開始となるのですが、5月の模試に間に合わせたいという要望が多いのと、「うちの子が、家でモンハンばっかやってて……」というご要望に合わせて、急遽再開時期を早めました(笑)。正式には4月からの開始となりますが、それまでに忘れがちな基本的内容を再確認することになりそうです。

それにしても、ここ数年の3月は忙しい気がします。今思えば、10年前の3月はもう少し余裕がありました。私も、追い出し会をした後で「ちょっくら旅に出てくるか」みたいな余裕があったのですが、今はそうもいかないですね……。規模が大きくなったこともあるのでしょうが、私自身が公私両面で抱えるものが増えたせいもあるのでしょう。

いつだったか、卒業生の子達と飲み会をしていたときに、話題になったテーマがあります。

「子供のときは、自分の体は自分だけのものだった。少なくとも、自分ではそう思っていた。だから、自分が否定されるのが怖かった。自分が否定されると、100%自分が否定されたように感じるから。

でも、成長して他人と関わるようになると、自分の体は自分だけのものではなくなってしまった。他人の関与が大きくなり、自分の体なのに他人が何十人、何百人と入ってきて、今の自分を構成するようになった。その結果、否定されるのが怖くなくなった。仮に否定されても、それは自分への否定だけではなく、自分を取り巻く様々な人々への否定でもあるから。否定が分散されて、最終的な自分へのダメージはどんどん小さくなった」

つまり、抱えるものが増えると身体的には大変になるけど、それに反比例して「自我の確立」に関連する精神的負担は減る傾向にあるということです。逆に言えば、抱えるものが少ないと、どうしても「自我の確立」の問題が頭をもたげてくる。これは、自我の課題を残したまま子育てを始めたお母さんが、子供の自立と同時に「自我の確立」の問題に再直面するのと同様の話題でしょう。

逆説的ですが、抱えるものが多いほど、精神的に余裕が出るというのは不思議な話です。

「若い奴が暇してるとロクなことないよ! 死にもの狂いで働きな!!」

という田舎のばっちゃの意見は、この事実を端的に射貫いた、「昭和の知恵袋」なのでしょう。

今はこのような強制をされると、やれ「発想が古い」だの「自由がない」だの、酷い人になると「軍国主義的」だのと言い始めるので、誰も何も言わなくなってしまいましたね。人生を楽しむ一番の近道なのに、馬鹿な話です。結果、「自由に殺される哀れな引きこもり」の誕生というわけです。自由をマネージメント出来る有能な人なんて、実際はほんの一部で、大半は自由に押し潰されるだけなのに、そこまでは配慮がいかなかったのでしょう。

因みに、就職した卒業生ほど、この点を強調します。「ガタガタ言わずに、とりあえず社会出ろよ。そこに解答があるから」と。サルトルのアンガージュマン(社会参加)ではありませんが、自我の確立が必須項目となっている現代社会において、何らかの負担を負うことは、それ自体が社会適応を最も容易にする、最低ラインの行動なのかも知れません。

長くなりましたが、何を言いたいかと言うと、

「とは言っても、ワイのお休み、もう少し増えないかなあ……」

ってことです、ハイ。

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