少なくとも多様性を認められるような世界を作る努力はできるはずだ。
体系的意見の集計
CARPE・FIDEMのコラムがネット上で集中的に取り上げられてから、2013年8月段階で半年が経過しました。前回はtwitterやfacebook等での反応を中心に取り上げましたが、今回は比較的まとまりのある意見を中心に、意見を交えながら掲載しようと思います。
構成は「反対意見」「賛成意見」「その他派生意見」の三種類に分類しています。
アクセス履歴等から集められるだけの集計を行いましたが、これには見落としの可能性も考えられるため、ご指摘があれば、その都度再掲載致します。特に、建設的反対意見は積極的に募集しております。
まとまったご意見をお持ちの方は、一度ご連絡頂ければ幸いです。
反対意見について
今回の騒動全般を見渡して再確認出来たのが、
「反対意見者の反論水準が一様に低く、極端である」
という現実です。しかし、これは今に始まった話ではありません。
後述するように、賛成意見や中立的意見は、基本スタンスが体系立っており、理性的かつ現実的なものが中心です。一方、反対意見は支離滅裂であり、感情的かつ幻想的なものが中心です。
これは他の支援現場からもよく聞く話ですが、引きこもりを長期化させる人は、概して能力総合面に問題がある場合が多いようです。
引きこもりが長期化するから能力的に低下するとも言えますし、或いは、最初から能力的に難があるため、社会参画を阻まれているとも言えますが、一部の特権的な存在を除いて、長期高齢引きこもり当事者の基礎能力は決して褒められたものではありません。
今回掲載した反対意見は、最低限理性的なものだけを集めていますが、その下には、
「死ね、消えろ」
「お前らの存在自体が罪」
「マジウザい」
「偉そうなこと言ってんじゃねえ」
等の刹那的感情論が渦巻いてる現実を認識しておいて下さい。
特に、若年当事者の方は、何故そのような意見が発生するのか推察してみるのも有効です。
全く同じ話をしても、ある人から「確かにその通りだ。教えてくれてありがとう」という反応がある一方、他の人から「ふざけるな! 殺すぞ!」という正反対の反応が返ってくるのは、話を聴く側の立ち位置が大きく異なるためです。
しかし、感情論ばかりを取り上げても仕方ありませんので、ここでは、理性的反対意見をピックアップし、極力好意的な視点で応じてみたいと思います。
1:長期高齢当事者と思われる方からのご意見
参照:
「アラサー以上の高齢ひきこもりの方向け」
http://hkst.gr.jp/opinion/
こちらは、引きこもり当事者からの発信活動を行うサイト「ひき☆スタ」における、「支援者から社会的な死を宣告された男」さんのご意見です。推察するに、長期高齢当事者の1人かと思われますが、よくある一般的な意見の一つと認識しています。
主張はいくつかありますが、特に挙げておきたいのが、
ひきこもり超会議でも出ました「高齢ひきこもり」の話題ですが、どうにも皆さん答えたくなさそうに興味なさそうに見えましたが、また意見をなさった方も核心には触れずはぐらかすような事ばかり言っておられましたが、その理由が分かったような気がします。
もう高齢ひきこもりは相手にされてないんですね。眼中にないんですね。もう支援しても無駄だから。支援する気が無い。
の部分です。
長期高齢当事者には具体的対策がほとんど無いという現実を、今だに直視していない人達が少なからず存在するという点は驚きでしたが、
逆に言えば、これは支援側が高齢当事者からの反発を恐れ、情報開示を怠ってきた結果とも言えるでしょうか。
数年前に下調べをしたときの段階で、既に高齢長期引きこもり当事者への対応は、事実上の「安楽死政策」が多数派でした。これは、「抜本的な対策がないので、親族関係者への暴行など、厄介なトラブルが発生しないように当事者を宥めすかし、本質に絡んできたら即はぐらかす」というものです。
今回の例で言えば、
ひきこもり超会議でも出ました「高齢ひきこもり」の話題ですが、どうにも皆さん答えたくなさそうに興味なさそうに見えましたが、また意見をなさった方も核心には触れずはぐらかすような事ばかり言っておられましたが、
の部分が、この「安楽死政策」の実情を端的に表していると言えます。
私個人としては、人間の尊厳と自立は不可分なものと考えていますので、本当に当人のことを考えるなら、こんないい加減な誤魔化しをするのではなく、現実を真正面から捉えるべきだと思っています。
それ故、
「何故、今更そんな当たり前のことに衝撃を受けているのか?」
が、現実派としての意見なのですが、それはさておき、
「支援者から社会的な死を宣告された男」さんがまず最初にすべきは
生きててごめんなさいね
等の、およそ成人男性らしからぬ発信を止めることでしょう。
まして、そこそこの年齢になるまで生きているなら、少しは自尊心を振り絞る位のことはするのが、年齢相応の礼儀だと思います。
自分の足で立つことが社会を生きることであり、いやしくもそれを望むなら、こんなプライドの欠片もない発言をするのは奇妙なことです。無ければ無いなりに、品性を失わない程度の工夫をする。
安っぽい泣き言にエネルギーを割く位なら、少しでも状況が良くなるよう努力する頭を持つべきでしょう。
実社会の人達は、皆そのような工夫を続けているのですから。
少なくとも、上記程度のことを続けていながら、社会のお荷物に成り下がることはありません。どれ程日本が大変だと言っても、まだそこまで酷い社会ではないでしょう。他人の意見を鵜呑みにして、
希望も何もないと宣告されてしまったこの人生、どう生きる意欲を持てと?
等と嘆くのは自由ですが、
まず嘆くべきは、主体性の無い「支援者から社会的な死を宣告された男」さん自身の姿勢です。
紛糾は外ではなく、内にあるのです。まずその現実を見てから発言するのが、「スジ」というものです。
2:「多様性」の悪用がもたらす結果
参照:
「支援者から社会的な死を宣告された男さんへ」
http://hkst.gr.jp/opinion/
同じく「ひき☆スタ」における、「わすれた」さんのご意見です。
上記「アラサー以上の高齢ひきこもりの方向け」を受けての話題ですが、
丁度大切な要点、特に、長期高齢当事者の「思考の歪み」に繋がる話題が含まれていますので、その点について述べておきます。
この「歪み」がある以上、彼らの問題は何年経とうと解決しないでしょう。
かつて「引きこもり親の会」の中で、長期高齢当事者を持つ親御さんが全く同じ主張をしていたのですが、その内容を対話形式にすると以下のようになります。
※「引きこもりでも、すぐに止めてしまう人いますよね?」
親「いますけど、それは恵まれた人ですよ」
※「恵まれたとは?」
親「お金がある人とかですよ」
※「お金が無くても、進学して自立する人はいますよ?」
親「それは、学校に行けてたからですよ」
※「彼女は、小学校から学校には行ってませんよ?」
親「頭が良かったからでしょう。恵まれてるのですよ」
※「別に、普通でしたけど……」
親「とにかく、あなたは引きこもりが分かっていない。引きこもりの問題とは、もっとずっと難しくてね、そんなに一言では語れないんですよ」
※「なら、解決への具体策はあるのですか?」
親「だから、そんな『具体策』とか簡単な問題ではなくて」
※「短期で引きこもりを止める人は、先々を見通した上で止めるのですから、判断力に優れていると思いますけど。長期的プランが見えているのに、いつまでも引きこもるっては、単に行動力が無いだけでは? 行動力が無い人は、今の時代必要とされない。時代に必要とされない人達が売れ残っているだけではないのですか?」
親「だから、そんな簡単な問題ではないのですよ」
※「では、どんな問題なのですか?」
親「……」
無論、こんな失礼な言い回しではありませんが、概要を簡潔にまとめるとこうなります。
要は、「上手く行く人は、単に恵まれているだけ」というのが、彼の主張です。
さて、この対話と併せて、以下の引用から「わすれた」さんの主張を見てみましょう。
一般的に社会でまともに活躍している人もその現在のありふれた現状がすべて自己の努力と考えるのは奢った思考だと思うのです。
人は皆生まれながらに違う人的・地理的・物質的・金銭的環境、違う家庭、違う肉体と精神をもって生まれてきます。
そのなかで問題を抱え社会に出て行かれないという人間が単に自己やその家庭・親だけの責任だと断言できるのでしょうか。
恐ろしいと考えるのは難関大学に入るような恵まれた(中には卒業しても当事者となる人もいるでしょう)人たちがそれが自らの努力だけのおかげだと思い、努力しないから「成果が出ないのだ」と当事者のことを考えることです
このような人こそ本当の社会を知らず想像力がないのだと思います。
主張そのものに、一切の歪みが無いことが良く分かります。「わすれた」さんは、大変理知的な判断力の持ち主です。
しかし、その主張が現実にはどのように利用されているのでしょうか? 少なくとも、長期引きこもり当事者の中では、以下のように都合良くまとめられているような気がします。
つまり、社会で上手くやっている連中は、最初から恵まれているから上手くいってるんだ。図々しい奴等だ。引きこもりだって同じに違いない。すぐに引きこもりを止める奴等は、実は結構恵まれてるんだ。恵まれてるから、すぐに引きこもりも止めるし、その後も上手くいく。つまり、あいつらはニセヒキだ。真のヒキじゃないんだ。
その点、オレは恵まれてない。金もないし、頭も悪い。見た目も良くないから人からも好かれない。だから引きこもってんだ。社会に出ても、何も良いことが無い。だから引きこもってんだ、何が悪い。オレこそ、真の引きこもりだろうが。オレの苦しみも知らず、好き勝手なこと言いやがって、想像力の無い連中だ。ふざけんな。
一見すると正しいように見える「わすれた」さんの主張は、そのまま「引きこもるための言い訳」へと変化しています。
「成功した人間は、単に恵まれていただけ。オレは恵まれてないから失敗した。恵まれてないのが悪いんだ。だから、引きこもっていても良いに決まってる」
現実には、このように変換・消化されているのが実情です。無論、彼らはその後も引きこもり続けるのでしょう。
もっとも、周囲に迷惑をかけないなら、当人が引きこもるかどうかは瑣末な問題で、こちらがとやかく言う話題でもありません。
彼らがそう考えるなら、それはそれで尊重すべきでしょう。結果については、当然自己責任の上で。
しかし、
大切なのは、若年当事者で同じような主張をしている人に、その主張の行先を知って貰うことではないでしょうか?
それらしい理屈をかざすには、若干の知恵があるだけでも十分です。しかし、現実から乖離した理屈は、それがどれ程正しいように見えても、最終的には破綻します。破綻が目の前に見えているにもかかわらず、尚続けるとするなら、それは自己の幻想的理屈に溺れ、現実から逃避するのと何ら変わりありません。
「わすれた」さんの主張は、分かりやすく言えば、
「皆それぞれ事情はあるんだから比較は良くないよね。上手く行ってる人は努力もしてるかも知れないけど、結局は環境的に恵まれてるからだよね。皆努力してるんだから、上手く行った人の意見ばかり取り上げるのはおかしいよね。上手く行ってない人への配慮が大切だよね」
というものですが、実際には「成功者の否定」にしかなっていません。成功した人々の努力や決意もろくに見ずに、
「成功している連中は恵まれているから」
「あいつらは、運が良かっただけで」
等、「成功者の否定」をすることで、逃げに逃げ続けた高齢当事者がどれ程いることか。当事者のみならず、先に挙げた親のような例もあります。
逃げのためのレトリックとして利用されている現実を、どう見るのでしょうか?
これは詰まる所、「既に失敗が確定している上辺だけの修辞学」であって、言ってることはそれらしくとも、実効性がほとんどありません。
「皆それぞれだよね。比較は良くないよね」という発想に実効性が無かったから、「それぞれ」の末に手遅れ化した当事者が発生している。結局、一見すると正しそうな理屈は、過ちの修正を拒否するだけの誤魔化しでしかなかったと言えます。
この発想の下地には、「多様性の悪用」があります。
今は、誰もがあらゆる方向に進める「多様化」が当然の時代です。仕事をしても良いし、フリーターでも良い。NEETだって良いし、引きこもりだって良い。自分で未来に責任が取れるなら、何だって良いのです。個人のあり方は個人が決めるものであって、どうあっても構わない。この点については、少なくとも若い人達の間では、十分なコンセンサスが得られているのではないでしょうか?
しかし、この発想が自己防衛に使われ始めると、急に議論がおかしくなります。核開発も、原子力発電に利用することも出来れば、戦略核兵器にだって転用出来る。同じ理屈で、
「多様性」という言葉も、自己の可能性を拡大する方向に使う人もいれば、先んじる人々の足を引っ張り、陳腐な自己正当化に使う人もいる。
「わすれた」さんの「皆それぞれ論」がどちらの側に利用されているのかは、現場を少し見ればすぐに分かることです。分からずに主張しているなら仕方ありませんが、ミスリードだと分かっていながら主張するなら、それはかなり悪質です。
長期高齢当事者ほど、
「あいつはニセヒキだから上手く行ってるだけ」
「俺はやむをえない事情があるから」
などと主張したがる傾向にありますが、そんな主張をしている段階で、既に劣位に立たされていることがよく分かるでしょう。劣位だからこそ、歪んだ主張を繰り返し、自我を守らなくてはならない。そんな実情も見て取れるでしょう。
自己正当化のために、「多様性」が悪用されている現実もすぐに認識されることでしょう。
社会に出られるから、優れているのではありません。社会に出ないから、劣っているのでもありません。
「社会に出よう!」と、自立を決意した人々を見下し、歪んだ自己を無理やり正当化しようとするから、劣っているのです。個々人の決意と努力を黙殺し、
「てめえらは、恵まれているから成功してんだろうが!」
等という卑しい発想を何歳になっても振りかざしているから、劣っているのです。
卑しい人間とは、つまりそういうもので、どれ程キレイに言い繕ったところで、主張の背後から香る腐臭を誤魔化すことは出来ません。腐臭は現実から発生するのです。
「わすれた」さんのご意見は、表面を取り繕い、綺麗に加工した「言い訳」にしかなりません。
この言い訳を10代で止められる人は優秀です。20代で止めるなら普通です。30代まで引っ張るなら愚かです。40代以降も持ち続けるのは論外です。こんなことは、普通に誠実に生きていれば誰でも分かる「当たり前」です。
どのような境遇にあっても、その立場なりの試行錯誤をした人は、一人間としての相応の美しさを持ちます。
恵まれているから美しいのではありません。恵まれてないから醜いのでもありません。生れ落ちたなりの場所で、自分らしいあり方を模索したから美しいのであり、その模索を放棄したから醜いのです。
「わすれた」さんのご意見が、一見すると正しいように見える主張でありながら、その行き先が「醜さ」へと繋がる現実を、一度認識して頂きたいと思います。認識すれば、結びの言葉である、
このような人こそ本当の社会を知らず想像力がないのだと思います。
の言葉がどれ程空虚なものか、すぐに分かるでしょう。
分かってからが、本当の人生のスタートです。
3:文字情報の限界を垣間見たことについて
参照:
「成功不成功」
http://piropiropu.hatenablog.
ブログ「ぴろぴろ日和」から「piropiropu」さんのご意見です。
実のところ、
彼(彼女)は当コラムに対しては反対意見の立場を取っていますが、私は「piropiropu」さんのご意見には全面的に賛成の立場です。
特に、
人を軽視したところから出立する考えっていうのは、どうしてもこれから何かをなしていくにしても誰かを見下さずにはいられないと思う。
いつだって自分が正しいと思う為に比較対象として見下げる人間が必要だからだ。
そんなところに希望はない。
の部分や、
人生の成功者、失敗者というような単純なくくりが嫌いだ。
本当はもっと複雑なはずの人生がこういったモデルケースみたいな枠におさまり人間の関係や考え自体を浅くしているように思える。
人を軽視することで成り立つような社会なら別に好き好んで参加することもない。社会にもいろいろあって一つじゃない。
無理して合わせようとして成功失敗の世界のメンタリティを得ようとすることもない。あんなのはいかがわしい新興宗教と対してかわらん。
の部分は、一片の否定もありません。全面的に仰る通りだと思います。良い意味で、「多様化」の可能性が伺えます。
同意見ながら話が噛み合わないのは、恐らく単純な誤解から来ているのだと思いますが、限定的文字情報故、仕方の無いことでしょう。出来るなら、私も「piropiropu」さんの仰るお酒の席に呼んで頂きたいと思います。きっと、愉快な話が出来るのではないでしょうか。
敢えて「piropiropu」さんに言いたいことがあるとすれば、
「あのコラムは、出来るだけ多くの人が、『piropiropu』さんの仰る、『目の前のコーヒーの味に酔いしれたり、連れと酒を飲んだりして談笑』するために必要なものの一つです。コーヒーや酒も、タダではありません。購入するだけの資金力が必要なのです」
だけで十分でしょう。
4:引きこもりから経営者になった方のご意見
参照:
「元引きこもりとして一つだけ言えること」
http://anond.hatelabo.jp/
こちらも、否定的意見ながら、一事例として非常に役立つお話かと思います。
ちょっとした勘違いで引きこもってしまった人達に対しては「こんな生き方もあるよ」と。
執筆者の方は、今は経営者をなさっているとのことですので、一度お会いしてお話してみたい気もします。トラックバック欄にある、
それはやり方がまずいのでもう少し頭使ってほしいかな、と一応商売やってる身としては思ってしまいますね。
の部分についても興味がありますので。
因みに、トラックバックでは「文章が下手」と批判されているようですが、私は執筆者の方の意見は理解出来ます。少なくとも、経営者としての立場と、「文章下手!」と批判される立ち位置の辛さ(笑)には、似たような者として親近感がわきました。
尚、
少なくともあのページには成果を載せるべきです。
のご意見についてですが、成果は数値化したものを出すよりは、実際に見て頂くのが最も早いかと思います。文字情報では、どうしても実情と離れてしまいますし。
5:積極的に表に出すべき元当事者の方のご意見
参照:
「CARPE・FIDEM(引きこもり支援機関の一つ)様へ」
http://kya-yamete.jimdo.com/
俳号「上塔絶人(かみとう・ぜっと)」さんのサイト「キャーやめて!!」でのご意見です。ウェブサイトの名称は「?」ですが、ご意見は至極まっとうなものです。賛否交えて掲載します。
「30代・40代の引きこもりは詰んでいる」とはどういう事でしょうか。そもそも、「人生が詰んだ」とは本当はどういう状態を指すのでしょうか。
こちらについては、
「生存に必要な資金や食料が自力で回収出来なくなる」
を「詰んだ」と考えています。微妙な違いはありますが、これは、上塔絶人さんの仰る、
「死かそれと同然の状態にならない限り、人生に『詰み』は無い」
とほぼ同じものと考えています。
仮にその人たちの人生が本当に詰んでいるとしたら、貴方々はどうなさるおつもりですか?
残念ながら、どうしようもありません。
現実には、この「詰んだ」状況で万策尽きた家庭が少なからず存在していますが、どうしようもないものはどうしようもない。極力生きる期間を延ばせるよう、持久戦に持ち込むしかありません。
(と言うより、既に策の尽きた家庭では、とうの昔に持久戦に追い込まれています。個人的には、余裕のあるうちに何もせず、いざ手遅れになってから現実を隠したがる姿勢が理解出来ません。)
現状での問題は、「詰んでしまった」当事者の方にあるのではなく、寧ろこの「詰んだ」状況が若年当事者層に正確に伝わってない点にあります。
同じミステイクをいかに減らすかが重要であり、同時に、「詰み」を糾弾することは無意味です。
従って、
生きている人間に向かって「人生詰んでいる」と面罵する
というご意見は、こちらの主旨とは無関係で、あくまで上塔絶人さんの主観的認識だと思います。
細部を見て頂ければ分かりますが、こちらが当該コラムで語っている対象は、主に若年の不登校・引きこもり層であり、既に「詰み」に至った人々ではありません。
ただでさえ、苦しい人生を送らざる得ない人達を追い詰める必要など、どこにもありません。大切なのは、まだ間に合う人達に必要な「現実」を届け、早期の判断を促すことにあります。
私の様に病気をし、更にアダルト・サヴァイバーにされてやっと30代から自分の人生を歩まねばならない人間もいます。他にもそれぞれ事情のある人はいる事でしょう。そういう人々を正しく支えるために、貴方々は活動しておられるのでしょう?
仰る通りです。但し、私達の活動が「正しい」とは思っていません。選択肢の一つではありますが。
また、
上塔絶人さんと同様の「アダルト・サヴァイバー」がCARPE・FIDEM参加者にも普通に存在している事実を見落とすことも出来ません。
それぞれの事情がありながら、それでも尚ここには共感がある。これは、CARPE・FIDEMが自立を旨としており、彼らもまた自立を旨としているためです。
事情は皆それぞれある故、「私は『○○』だから!」などという主張は、最早何の価値もありません。自分の事情を顧みて貰えるという姿勢自体が、既に誤謬をはらんでいるのです。
対等に議論したいと望むなら、「アダルト・サヴァイバーだから」という文脈を放棄すべきでしょう。
それを「何歳から上はもうダメ」と切り捨ててしまう事は、捨てられた子犬を可哀想だからと拾いながら、老犬になってみすぼらしくなったからと、もう一回捨ててしまうのに等しい無責任です。
全面的な反論ですが、
現状、そのような卑しい真似は一度たりともしていませんし、今後もするつもりはありません。
人間として間違っている行為には厳しく言いますが、年齢を理由に切り捨てる行為はしていないはずです。この点については、きちんと言っておきたいと思います。
例えをお借りするなら、CARPE・FIDEMの活動は、
「このまま捨てられたままでたまるかよ!」
と考えている子犬をサポートすることであり、同時にその子犬を強靭な成犬になるまで見届けることです。
話題となったコラムは、「老犬」の実情を伝えるために用意したものですが、これに「老犬」がどう反応するかは、その「老犬」の生き様で決まるでしょう。
本当に誠実に生きてきた「老犬」なら、まだ可能性のある「子犬」達を手助けするでしょう。
実際、そのような「老犬」の方々から、励ましのメールを何通か頂きました。公開されているものでも、以下のような意見があります。
参照:「アンダーグラウンドダーク」 30歳以上 高齢ニート集まれ~
http://blog.livedoor.jp/undergrounddark/archives/25703474.html
43 :
名無しさん@毎日が日曜日
2013/02/04(月) 00:17:25.42 ID:6nzEYVKN
30歳過ぎまで職歴無いとどうなるの?
https://www.carpefidem.com/column002a.html
49 :名無しさん@毎日が日曜日 2013/02/05(火) 00:12:48.00 ID:MefLpcvN
>>43
有名なサイトだな。
確かに俺たちには不要だな。
俺たちにとって、何の役にも立たないし。
でも考えてみたら、このサイトはそもそも前途ある若者ひきこもり向けのものなんだ。
そして俺らは彼らがなるべきではない、最悪のケースそのものなんだ。
だったら俺たちは進んで人柱になろうじゃないか。
前途ある若者の踏み台になろうよ!
俺たちみたいになるなよ!俺たちはもう一生這い上がれない、ホームレスと同じ人間レベルであると!
こんな風にだけはなるなよ!早く行動を起こせ!と若者にアドバイスをしようよ!
死ぬのはそれからでも遅くないだろ?
逆に、
不誠実な生き方をしていた「老犬」は、ただ自分の生き様のみすぼらしさを隠そうとし、批判を繰り返すことでしょう。
「俺は(私は)、お前らのせいで傷ついた!」
のような言葉で。
やるべきことを全うした「老犬」なら、例え状況がどうあっても、今の自分を素直に受け止められます。
受け止められないとするなら、それは何ら成し遂げていない、或いは、成し遂げようとすらしなかったことの証。それでも、未達を批判するわけでもありません。「努力の途上」「成果まであと一歩」という可能性だってあるのですから。
しかし、「努力の途上」にある「犬」なら、寧ろ積極的にこちらへアクセスしてきます。実際、今回の件だけでも20件ほどのアクセスがありました。金銭の授受も何もありませんが、ただ、
「これからどうしたら良いか考えましょうぜ?」
と問いかけてくる、逞しい「犬」です。
このような当たり前のことを実行している「犬」こそ、積極的に評価されるべきではないでしょうか?
「全年齢の引きこもり支援団体」を標榜される方々が、「何歳以上は無理」と言われるのは間違いです。全年齢が無理なら、初めから「○○歳以下の引きこもりを支援する団体です」とはっきり断っておくべきです(断っていたなら見落としを失礼します)。
発足以来一度として変わることなく、全年齢OKとしています。
しかし、長期高齢当事者の場合明るい未来に乏しいため、そもそも社会参加自体を拒むケースの方が多数派です。年齢が一定を過ぎると、体力と同時に、気力そのものが大きく低下する点も見逃せません。
30代40代になりながら、いつまでも10代20代のつもりでいるのは間違いです。
改善を求めなくなったら、後は転落するのみ。こちらが門戸を開いても、見向きもしないでしょう。
「無理」になるのは、こちらの対応が原因なのではありません。当事者本人の「意識」「気力」そして「体力」の問題です。
もしくは、初めから活動すべきではありません。最悪の手術とは手術しない事ではなく、手術を途中放棄する事です。
これは、
「全員を助けられないなら、助かる人も見捨てるべきだ」
という発言と事実上同値で、出来もしない完璧を求める非常に悪い癖です。
「全てを守ろうとする者は、何一つとして守れない」
というフリードリヒ2世の言葉の方を、私は支持します。
私見ですが、引きこもりに陥る人々の感性の細やかさには、何度も物事を考えさせられた事があります。
全面的に仰る通りかと存じます。
そういう細やかさが、現代においては「非効率」と見做され、切り捨てられている様に思えます。そういう美点を多く掬い上げて頂きたいと思うのは、私の贅沢でしょうか。
贅沢ではないと思います。寧ろ、積極的に掬い上げるべきでしょう。
しかし、その「細やかさ」を金科玉条の如く崇め奉り、
「社会が薄汚いから俺が苦労するんだ! 社会が悪い!」
「感性の豊かさは美点なんだから、今の私を変える必要などない。変わるべきは社会の方だ!」
のような発言を繰り返してきた愚かしい「老犬」達の姿も、はっきりと表に出すべきでしょう。
本当に優れた感性を持った「老犬」は、誰が見ても尊敬に値する姿をしているものですし、そのような「老犬」とは、私も今現在非常に良い関係を築いています。
確かに、感性の細やかさは素晴らしいものです。しかし、それを理由にして「詰む」まで引きこもり続けた人は、本当に評価されるべき存在なのでしょうか?
細やかな感性を持ちつつ、それでも狩場(社会)に出ている「老犬」を差し置いて、「私は細やかだから細やかだから細やかだから」と主張して他者に依存することに、一体どれほどの意味と価値があるのでしょうか?
「心の細やかさ至上主義」が、今の「詰み」の原因の一つとなっていることを忘れてはならないと思います。
少なくとも、引きこもりの問題を真面目に考えるなら、「心の細やかさ」は一度脇に置いておくべきでしょう。
今回は以上となります。今後も、追記があり次第拡張致しますので、ご要望がある場合には、その都度ご連絡下さい。次回は、主に肯定的意見を中心に取り上げる予定です。