引きこもりから抜けられる奴がいないのは何でですかね?」
本当に原因は「心」ですか?
話の中で「不登校」や「引きこもり」という言葉が出ると、9割方その次に続く言葉は「心」です。
「不登校の子にはね、心のケアが必要なのです」
「引きこもりの人はね、心が弱いんだよ」
大方こんな形でしょうか。皆が皆、判で押したように同じことを語り、今ではそれも「普通」で「一般的」、そして、疑いようの無い「事実」とされつつあります。
しかし、「心」という漠然とした、抽象的要素に焦点を当てるのではなく、私達のところのような「具体屋」を営んでみると、それとは正反対の言葉が聞こえて来るものです。
「心がどうのって言うけれど、別に自分は普通のつもりですよ。単に機会が無いだけで」
「具体的にどうすれば良いのかの方が重要なのでは?」
「抽象論は意味無いだろ」
「現実の問題が心の問題となって出てくるんでしょ? なら、先に現実の問題を解決するように行動すれば良いのでは?」
丁度こんな具合です。
確かに、引きこもりの問題解決のきっかけとして、カウンセリングを中心とする「心のケア」はある程度有効です。
しかし、就業や就学などに繋げ、実際に問題を解決した人々の事例を確認すると、問題の総合的解決までトータルで見た際のその支援比率は、どんなに多く見積もってもせいぜい2~3割程度。それどころか、人によってはそもそも「心のケアが必要である」との認識がありません。
そして、所謂「心のケア」を求めたがる人ほど、その後の改善状況が芳しくない。一度引きこもりは止めても、その後の行き先がないためneet化し、その後は再び引きこもりに戻る。こんな話は良くあるものです。
しかし、この一般認識と現実とのギャップが大きいのは一体どういうことなのか? この疑問は、私、そして問題を素早く解決し、普通の家庭を確保した優れた家庭の親御さん達とが長らく共有してきた、一つの根源的疑問でした。「何故、そこまで心に執着したがるのか?」と。
どうにでも解釈出来る都合の良さ
「心」とは、語り手にとって非常に都合の良い言葉です。特に、最近はある種の「心理ブーム」が見て取れる程、その思考パターンが広範に行き渡っているせいか、都合の良さは実態以上の強さを持ちます。
「『心が……』と言えば、何となく許して貰えそう」
「『精神が……』と言っておけば、自分の悩みにも『重み』が出てくる」
引きこもり支援の現場では、その手の「心の悪用」が日常的に見受けられます。ただでさえ同期から出遅れているのが普通の引きこもり当事者にとって、何となくお手軽に自己を「定義」出来る「心」という言葉が好都合だとしても、別段不自然なことではないでしょう。「心が痛い……」「精神的に辛い……」いくら言っても意味の無いこの言葉が、そのお手軽さと相まって、引きこもり当事者、並びにその支援現場で大変好評なのは、最早言うまでもないことです。
しかし結局のところ、「心」が叫ばれる根底には、「心」そのもの以上に「社会的要因」や、「当事者の成熟度」、果てには、「単なる体力不足・能力不足」があることが大半です。
仕事が無ければ、心も不安定になるでしょう。不景気な空気に包まれていれば、気分も落ち込むと言うものです。まして、「引きこもり」などと不名誉な定義をされて心地良いはずはありません。中学生の範囲、下手をすれば小学生の範囲もろくに学んでない人からすれば、周囲の社会は全く持って訳の分からないものでしょう。中学生から不登校でそのまま引きこもっているなら、30近くなっても中身は10代前半です。不安定にもなって当たり前です。その上、体力まで無くなっていれば、心身ともに木端微塵でしょう。
しかし、それを「心の問題」と捉えるのは、出てしまった結果を弄くる行為に過ぎず、何ら根源的解決にも繋がりません。
心の異常は結果論であって、原因ではないのです。
そして今、それを取り違えたまま、何年も何十年も「心」にしがみ付き続けた人々の間から、救いようのない悲劇が噴出している。それが、最近の引きこもり長期化の周辺に蔓延る、奇妙な閉塞感なのではないでしょうか。
その証左ではありませんが、
もう少し具体的行動を取ってきた人々は、多少の遅れがあっても、何とか無事に社会へ出ているものです。自分の頭で学び、自分の魅力で友人を作り、そして自分の力で収益を手にする。この普通で当たり前の営為をきちんと続けた人々は、その後の人生もきちんと手にしています。
一方で、抽象的で具体性の無い、それでいて、自分の都合の良い解釈が幾らでも出来るアバウトな要素にすがった人々が、今正に死にかけようとしています。彼らを圧殺しているのは、何となく温かそうで、何となく心地良く、しかし何ら具体性を持たないもの。即ち、「心」。引きこもり全体に広がる無意味な閉塞感の根源は、この「心」への逃避にあるのではないでしょうか。
抽象論から具体論へ
上手く社会へと抜けて行く当事者の行動をつぶさに見ていると、その行動指針の中核には、何となく心地良いけど、何も成長しない「抽象論」ではなく、一時的には辛いこともあるが、日々着実に成長していく「具体論」が頑として根を張っていることがすぐに分かります。
「何となく優しい」
「何となく受け入れられそう」
「何となく安心する」
そういった一時的で刹那的な「安定性」から決別し、
「今の自分が出来ることは?」
「10年スパンで行動する際の注意点は?」
「生活可能なレベルでの資金調達の可能性は?」
といった具体論へとスライドして行く。それが結果的に、彼らの心を根底から確実に安定化させて行く。至極当たり前の現実がそこにはあるのではないでしょうか。
確かに、心を見ることは重要です。しかし、そこには「現実へと回帰する」という前提があり、それを目標とした行動であるべきではないでしょうか。
その要点を疎かにし、何となく心地良い「心」という言葉へ逃げた人々。彼らの悪しき轍を踏まないことこそ、まだまだ将来性ある、若く優れた当事者の方々に求められている要素なのだと思います。