最近聞いた、参加者の子の名言がコレ。
「労働者階級風情の自分が、比較文化とかの教養を学ぼうなんて、烏滸がましいってことですよね。自立してないなら、まず身につけるべきは金になる技術だと」
「いや、全く以て本当にその通りだよ!」と、膝を叩いてしまいましたな。こいつは大物になりますね~今から楽しみです。きっと、いつかどこかで経済力をつけ、彼の求める教養も手にすることでしょう。
それにしても、何ら生産活動せずに生命が維持されるなど、貴族階級でも無い限り土台無理なわけで。社会の大半を占める労働者階級・無産階級の人間は、生産活動なしには生存し得ない。偶然生きているとするなら、それは親類の温情か、社会権の助力に依存しているだけのこと。
資産のある仮想的貴族階級の人間が、引きこもりをしようが何をしようが勝手。寧ろ、そこから生まれる文化・教養には楽しみさえ感じます。
しかし、まさに「労働者階級風情」の人間が、引きこもりというお貴族様にしか出来ない特権的行為を行使しようなどと思うから、物事はおかしくなる。もっと分かりやすく言えば、「身の程をわきまえろ、下郎が!」ということ。
私は身の程をわきまえた下郎なので、まずは自分の自立を最優先にし、発生した余剰時間や余剰資金を文化的側面に充てる「普通の行動」をしています。参加者の彼も同じことを考えているのでしょう。そして、これは世の中の大半の人(下郎)が考えている「当たり前」。
となると、労働者階級風情の癖に、貴族の真似事をした愚か者が、引きこもりということになる。下郎には下郎のやるべき義務があり、それをサボれば、惨めな最期になるは自明。
人間、甘やかされれば、おかしな考えを持つようになるのは自然なこと。昭和の時期に引きこもりが少なかったのは、「働かない? なら死ねば?」が普通だったからで、実際にそれで死んでたから。死にたくない人は、働いていたから。
しかし、国が豊かになり、経済力のある家庭が生まれれば、親の経済力に依存して自立しない愚か者も発生しますし、国が発展し、社会権が確立されれば、公的扶助や福祉に依存して自立しない愚か者も発生します。
人の足を引っ張ってでも依存しようという性根の卑しい人間がいる一方、「仮に足を引っ張られ、自分のやりたいことを後回しにしてでも、自分の足で立ち上がろう」と思う子がいた現実が、私には大変心地良いですね。
コメントを残す