high probability
例えば、中学・高校時代の不登校から持ち上がりで引きこもりになった人の場合、解決するか否かの最良にして最高確率のチャンスは20歳前後にあります。
即ち、大学への進学という一つの節目を利用して社会へ戻るというルートです。過去の事例を通してみても、ここでの復帰事例が最も改善確率が高く、同時に無理がありません。20前後で大学に進学するのは別段珍しいことでもありませんし、同時に、若さ故に学習速度も速いため、必要事項の習得に時間も費用も掛かりません。よしんば多少遅れたにしても、所詮は同世代が大半。取っ掛かりさえ間違えなければ、普通の生活は普通に存在します。
つまり、最も効率の良い改善ルートは20前後に集中していると言えます。
それを知ってか知らないでか、自分の将来をある程度真剣に考えている若年層の人々は、この機会を最大限に活かそうと努力します。
「結局、これが一番早い気がした」
「バブル期じゃあるまいし、頭の無い人間が生き残れるとは思えない」
「どうせいつかはやらなきゃいけないのだから、さっさと行動した方が楽」
「まともな国家資格でも取っておけば、取りあえず仕事は確保出来ると思う」
極めて単純にして要点を押さえた思考の結果、彼らは生活の重心を「学び」へとスライドさせ、数年の期間の後に、誰もが認める「一人前」へと成長します。
一方、何も考えていない人々ほど、この可能性の高い期間を無為に過ごしています。現実逃避も兼ねて延々と続くゲーム、留まることを知らない惰眠、暴飲暴食、罵詈雑言……。比較すれば誰にでも分かることですが、同じ人間、同じ世代の若者でも、その姿勢には恐ろしいまでの歴然とした差が発生しています。
for example
試しに、これまで私のところに集まってきた両者の発言の違いを、ここに並べてみましょう。
「これから世の中がどう進むと思います? 特に、今の親の世代と比較して、自分達のすべきことはどう変化すると思います?」
「やる気が出ない。めんどくさい」
「自分の力で今を生きるにはどうしたら良いのか? そもそも、その場合の『力』とは、具体的にどのようなことを意味するのか?」
「親があんな奴だから、俺はいつまでたっても引きこもりを止められないんだ!」
「外国人労働者が大規模に流入してきた場合、最も不利なのはどの分野でしょうか?」
「心が痛い……」
「バルタザール・グラシアンからは学ぶものが多かった。是非読んでみて下さい。お薦めです」
「引きこもりが生活保護を申請するにはどうしたら良いですか?」
「国家資格があったとしても、状況が変わって危険になることもあるでしょう? そんなときに備えて、どう行動すべきだと思います?」
「精神的に辛い……」
見れば分かることですが、この種の差は10代も後半になると普通に出て来ます。その人間の「可能性」というものが、実に見事に表面化しているのではないでしょうか。
so what ?
「差」は年を重ねるにつれて加速度的に開き、30も過ぎれば事実上取り戻すことが不可能なほどに広がります。
毎日着実にやるべきことをこなし、新しい人と出会い、自分の知らない世界を学び続けた人々と、都合の良い自分の世界へただ逃避し続けた人々とで差が出るのは当然のことですが、その「差」が発生することを見越して早期に行動出来るか否かは、多分にその人の「能力」にかかっています。これは偏差値云々とは関係の無い、「本当の意味での頭の良さ」というものでしょう。10代の頃ならまだしも、本当の意味で賢い人とは、成人してから何年間も無為に引きこもることなどしないものです。
しかし、無為を続け過ぎ、後戻りも言い訳も出来なくなった人々から、その理由付けとして再び「心」が使われ始めます。
「心が痛かったから動かなかった」
「自分がこうなのは心を病んでいたからです」
「心を見ることは大切なこと」
「これは心に関する新しい病気なんですよ」
何もしてこなかった人々の間からは、そんなご都合主義的な話が途切れることなく溢れ出て来ています。
ただ残念なことに、そんな発言には全く意味がありません。
「で、君はこれまで何をしてきたの? 履歴書や経歴書にある、この空白期間は何?」
そう問われたときに、あれほどまで自分に優しく微笑みかけてくれていた「心」という言葉は途端に反旗を翻し、一挙にどうにも動かすことの出来ない、強大な「敵」へと変化します。
「なるほど。つまり、君は自分自身に対してすら責任を取れないわけですね。そんな人はもう結構です。社会に出るということは、他人に対しても責任を負うということなんですよ。私達も忙しいですから、お引取り下さい。それでは、次の方」
無為を続けた人々の周囲には、こんな話が路肩の石ころのようにゴロゴロ転がっています。
at your own risk
未来を見通せる人々、そして危険回避のために何をすべきなのかが分かっている人々にとって、今すべきことは実に単純であり、そこに迷いも無ければ「心」という逃げ場も不要です。しかし、要点を絞ることも、責任を取ることも何も出来ない人々にとって、「心」は甘美にして至高の味わいをもたらしてくれます。
無論、心を見ることは大切な営為です。しかし、心への過剰な没頭は自身の破滅しかもたらしません。その識別すらつけられず、いたずらに人生を浪費する。
そして、最後の最後で「心」に裏切られた瞬間、ようやく彼らは全てに気付き、そしてこれまでの自分の行いの間違いを猛省するのでしょう。
当然のことですが、そのときには、全てが手遅れです。
「手遅れなんてことはない!」
などと懸命に叫んでみても、向けられるのは、周囲からの冷たい視線だけです。心へ逃避するとは、結局はそういうことです。
先を見通せる力は、まごうことなく一つの能力です。ファジーな要素に逃げることなく、確実な要素の積み重ねを怠らずに続けることは、10代~20代の間に終わらせておくべき必須の努力でしょう。
そこには「めんどくさい」や「やる気が出ない」というワードは一切介在せず、単に「実行したか否か」という地味な現実があるだけです。
最後に、不登校経験者だったとある青年が、和気藹々とした飲み会の席で発した発言を一つ引用して終わりにしましょう。
「先生、『やる気がない』に対する社会からの返答って何だと思います?」
「『やる気がない』に対する?……いや、分からん。何だろう?」
「外に出てから初めて気付きましたよ。たった一言。『なら、死ね』」
社会を冷徹に見ている者は、曖昧な要素を認めない。認めないからこそ彼らは力をつけるよう努力し、そしてより大きな安定性を手にする。逆に、その力のない者ほど曖昧模糊へと逃避し、その甘さの中で弱り続け、遂には何も手にすることなく死を迎える。
強烈な言葉の陰から見える一つの哲学は、自然界に存する当然の事実を過たず射抜き、そして自ら軸となって、彼に更なる成長を促すことでしょう。
若年なれど侮れない力を彼が持ち合わせていることは、既に明白な事実となっています。