社会の向きと正反対
まだ学生のときの話ですが、麻布近辺でタクシーを拾い渋谷駅へ向かっていたとき、タクシーの運転手さんから上記のようなお話を聞いたことがあります。この三要素については、話がエスカレートして喧嘩になったり収拾がつかなくなる可能性があるからだそうで、「問われても答えない」或いは「適当な返事をする」のが肝要であるとのこと。確かに、皆各々立場がある訳で、歩み寄りの効かない分野の話をアレコレ言っても始まりません。徒然草には「問わぬ限りは言わぬこそ、いみじけれ」というフレーズがありましたが、この場合には「問わるとも言わぬこそ、さかしけれ」と言ったところでしょうか。
ところがどういう訳か、引きこもり当事者と会うと少なからぬ確率で政治批判や宗教論議、社会批評が持ち出されます。いつだったか、引きこもり当事者の集まりに参加するよう促され参加したものの、そのうちの一人がいつまで経っても政治批判ばかりを繰り返し、参加者を辟易させるという事例がありましたが、これもその一例と言えるでしょうか。
基本的に彼らの批判は政治家や大企業の幹部、テレビ出演者など、比較的批判しやすい対象に向けられることが多く、或いは韓国や中国などの近隣諸国への批判となることもあります。その他にも、巷間で話題となった失言や事件などにも鋭く反応し、口を極めて罵るケースがしばしば見受けられます。
ただ、一部の少数派を除いて、基本的にその非難のあり方は極めて感情的であり、非建設的で、社会一般で行われる批判よりも急進的なものであるのが普通です。
批判をより良い「何か」に結びつけようとするのではなく、単に「気に食わないから批判する」「腹が立つからぶん殴る」というだけのものが大半で、論理的要素はほとんど存在しません。そこには将来を見据えた好ましい姿勢も無く、今の自己を省みる尊敬すべき姿勢も無く、単に自身のフラストレーションのはけ口を求めるだけの浅ましさがあるだけです。一部の優れた人々は、その批判の「意味の無さ」に気付き、別の行動へとスライドするものですが、残念ながらそのような存在は少数派です。
惨めな者は、更に惨めな者を求め彷徨う
引きこもりを止め、社会へ出るようになった方からも頻繁に聞くことですが、
彼等が批判を好む理由は極めて単純で、「誰かを蹴落とすと、自分が高い位置に立った気になれるから」です。
社会から「引きこもり」という定義をされ、日々周囲の視線に圧殺されそうになっている当事者からすれば、社会批判は自己の尊厳を手軽に満たしてくれる「素晴らしい素材」です。
「政治家なんてどいつもこいつもクソばかりじゃねえか!」
「大会社のエリートなんて言っても、高が知れてるよな!」
「そんな連中と比較すれば、俺の方がよっぱどまともじゃねえか!」
誰かを批判し蹴落とすことで、ロケットのように空高く浮遊する「ように見える」自己。自らの惨めさに日々苛まれていればこそ、この甘い蜜から逃れられる可能性はそうそう高くはないのでしょう。
その結果、彼らは更なる批判対象を求め、ネット上を彷徨うことになります。
しかし、所詮他者への批判で持ち上がる自己など幻想に過ぎません。自らの存在を浮揚させるのは、いつの時代も日々の小さな努力であり、他者との出会いであり、そしてそこから得られる新しい発見です。
それを忘れて尚も批判を繰り返すなら、彼らは短期的快楽を求めて注射を繰り返す麻薬中毒患者と本質的には何も変わりません。どんなに自己を正当化して批判を繰り返しても、いつかはその「意味の無い行為」から決別しなくてはならないのです。
上記のような理由があるが故、社会批判の程度は同時に、彼らの状況の「程度」を計測するパラメタとしても機能します。つまり、
「一般に、社会批判の程度が激しい程、当人を取り巻く状況は悪い」
ということです。「社会批判 過激になったら 赤信号」とは、詰まるところそういうことを意味しています。
日に三度我が身を省みる
それでも尚、自己の内なる欲求に従い続けるのならば、そこから先は完全に「自己責任」の領域です。いつの時代でも、誰か一人位は「そんなことをしていると、いつかとんでもない目に遭うよ」と、過ちを指摘してくれる人がいるものです。しかし、言われて姿勢を改める者もいれば、同じことを言われても全く変えようとしない者もいます。無論、どちらがどうなるのかは火を見るよりも明らかです。
その「意味の無さ」に気付けるか否かは純粋に「能力」の問題であり、同時に当人の「姿勢」の問題です。
一つの提言を軌道修正のチャンスと捉える者と、新たな批判の好機と捉える者。両者の違いを何年間も見続けた者からすれば、最後に言えるのはただ一つ。
「因果応報」
この一言に尽きる気がします。
安っぽい批判でいつまでも自己を誤魔化すより、思いっきって野球でもやって、相手チームと正面衝突の喧嘩をする位の方が、人間としてよっぽど建設的だと思っているのは、きっと私だけではないでしょう。