不登校・引きこもりからの大学進学塾

不登校・引きこもりコラム

不登校になったら何をすれば良いのか?

  • 投稿日:2017年02月14日

 

我々は、いつも「過渡期」に、「時代と時代との間」に生きている

 

カール・レーヴィット 「世界と世界史」

不登校になったときに知っておくこと

本当は大したことでなくとも、不登校に陥ると、それだけで人生終了のように感じてしまう子もいるかと思います。しかし、実際にはそこまで酷いことではありません。不登校になっても解決策はいくらでもあります。

そこで今回は、不登校による漠然とした不安を解消して貰うために、不登校になったときに知っておいて欲しいことをまとめて掲載することにしましょう。

参照:不登校から安定的に大学進学するには?

1:不登校になっても、それ程心配しなくても大丈夫です。

一時的に物事が上手く行かなくなることは誰にでも起こり得ますし、結果として不登校になる子も大勢います。しかし、その後できちんとやり直しをした子は、少しつまずいても、すぐに元に戻ることが出来ています。一見すると、不登校は大変な問題のようにも見えますが、どうしようもない程難しい問題でもありません。

不登校になったからと言って、極端に心配する必要はない。

まず、この事実を知っておきましょう。

 

2:ただし、何も考えずに生きていると、やり直しも出来なくなります。

不登校の子は、大半がまだ10代でしょう。恐らく、将来が全く見通せない状況下にあるかも知れません。しかし、どれほど絶望的に見えても、10代で絶望する必要はありません。何故なら、若いからです。若さとは、何物にも代えがたい「力」であり、その力の大きさは、10代では実感し切れないほど巨大なものです。

ただ、何も考えずに、漫然とゲームやインターネットにのめり込む生活をしていると、気が付いたら20代、30代になり、40代も過ぎると本当に絶望的な状態になることがあります。

人によっては、

「そんなおっさんになるまで引きこもるわけないじゃない」

と思うかも知れませんが、事例は普通に存在しています。

今では、何となく引きこもりを続けたまま中年になってしまう大人が少なからずいて、彼らの中には、絶望に駆られて自殺したり、家族に暴力を振るったり、殺人事件を犯したりする人々がいます。本当の絶望とは、社会から厄介者扱い、邪魔者扱いをされ、そこから抜け出せなくなったときに少しずつ始まります。

彼らの多くは、

「まだ大丈夫。もう少し引きこもっていても大丈夫」

のように、決断を少しずつ先延ばした結果、気がついたときには全てが手遅れになってしまった人達です。何か物凄く悪いことをしたわけでも、人間的にどうしようもない人だったわけでもありません。

ただ、「責任を持って行動しない」という微罪を毎日重ね続けた結果、大罪人扱いされるようになってしまった。「塵も積もれば山となる」の典型例と言えるでしょう。

10代とはまだ絶望には程遠い年齢ですし、多少学校に行かなくても、いい加減な生活をしていても全く問題ありません。しかし、それを10年以上も呑気に続けていれば、本当の絶望がやってくるでしょう。

絶望せずに済むのは、「まだ若いから」だという現実を忘れてはいけません。

 

3:まずは最低限の勉強をしておくことが大切です。

とは言え、何をしたら良いのか分からない場合もあるでしょう。その場合には、

まず最低限度の教養を身につけておいて下さい。基礎教養は判断力の最も基本的な材料であり、まともな判断の出来ない人は、これからの時代で生きて行くことが出来ません。

何を勉強したら良いか分からない場合もあるでしょう。その場合には、学校の勉強程度のもので構いません。どう勉強したら良いか分からない場合もあるでしょう。その場合には、ここみたいな塾に来ても良いですし、家庭教師の先生を頼んでみても良いでしょう。

10代の頃に学んだ事柄は、20代、30代と歳を重ねるにつれて、予想のしなかったところで成果が出て来ます。

国語や歴史、政治、経済、倫理を学ぶと、自分の知らなかった考えが入ってきて、多様な人々の人生を知ることが出来、人間としての幅が広がります。

幅の広い人間は幅の広い人間同士で付き合うことが増えますから、自分自身の幅を広げておくことで、より成熟した人間関係を持てる可能性が増えます。これをしないと、嫉妬深く、幼稚で、視野の狭い退屈な人々に囲まれて生きることになるでしょう。

数学や物理、化学、生物等、自然科学系の学問を学ぶと、物事を筋道立てて考える癖がつき、物事の真偽に対する洞察力が高まります。

論理的に考えられる人や真偽判断の優れた人は、感情論に流されたり、子供騙しの流言や流行に流されるリスクが減り、生きる上での方向性を誤る可能性が低下します。逆に、これをいい加減にすると、フィーリングでしかものを考えられず、場当たり的判断に身を委ねるだけの、惨めで残念な思考力で勝負しなくてはならなくなります。

英語を学ぶと、世界が途方もなく大きく広がり、日本という狭い島国で生きる必要がなくなります。

既に成熟し切った日本には、もうこれ以上大きな伸び幅は期待出来ません。結果、これからの若い日本人には、世界全体で勝負することが当然のように求められるでしょう。そのためには、英語という名の「武器」が必要です。これを疎かにすると、いつまでたっても日本という狭い世界で活動しなくてはなりません。

たったこれだけのことでも、行動幅は飛躍的に増加します。きちんと勉強してきた人と何も勉強してこなかった人とでは、その後の生活水準も全く別になることが多いですが、これは学んだ人の方がより広い世界を知っているからです。

学ぶことは、いつの時代でも変わらず、人の可能性を大きく高めてくれます。学びが今の閉塞感を打開する最良の策だという現実を知っておきましょう。


4:10年後の自立を考えてみる。

最低限の勉強をしているなら、次は、

「どのようにお金を得て生活していくのか?」

について考えておきましょう。(ただし、これは今すぐに結論を出さなくても大丈夫です。)

誰でも同じことですが、お金が無ければ生きてはいけません。

今はまだ、お父さんやお母さんが助けてくれるかも知れませんが、それもせいぜい20代までが限界で、それ以降は自分の力で生活しなくてはなりません。

そのためには、生きて行くための「力」が必要です。

ただし、「力」とは腕力のことではありません。生きて行くのに必要な「お金」を手にする「能力」のことです。そして、この場合の「能力」とは「周囲の人達から必要とされること」を意味します。

例えば、病気で困っている患者さんを治せるお医者さんや看護師さんは、きちんと「能力」を持っています。何故なら、彼らは患者さんから必要とされているからです。病気で苦しむ患者さんからすれば、その病気を治してくれるお医者さんや看護婦さんは無くてはならない存在です。だから、「能力」のある彼らに患者さんはお金を払います。

しかし、何もしないまま引きこもり続けた人達は、何の「能力」も持っていません。何故なら、誰も彼らを必要としていないからです。ただ漫然と引きこもっていた人達は、いてもいなくてもどうでも良い存在とされてしまいます。(酷いところになると、血の繋がった家族からでさえ存在自体を疎まれることがあります。)だから、誰も彼らにお金を払いません。

「誰かから必要とされる存在」になれれば、それは一つの「能力」を持ったことになります。となると、現実的に物事を考えられる人達がすべきことはたった一つ、

「どうすれば必要とされる人間になれるのか?」

です。これを考えてみるのは、10代~20代にかけての大切な仕事となります。

 

5:「得手に帆をあげて」を忘れずに。

「能力」について考えるときに大切なのは、「得手に帆をあげて」、つまり、得意分野を生かすようにすることです。

そのためには、自分が何に優れているのか知らなくてはなりません。

しかし、家でじっとしているだけでは、何が優れているのか分かりません。何故なら、家には競争も無ければ、刺激も無いからです。人は誰かと自分とを比較することで、自分の優れている点や劣っている点を知ります。

一方、家にいてそれを知ることは非常に困難です。

「インターネットで世界を見ているから大丈夫」

と思うこともあるかも知れませんが、外に出て人と出会い、話し、人間関係を構築しながらネットでも世界を見ている人達には、恐らく勝てないでしょう。実際、10年以上もネットでしか世界を見たことのない人達もいますが、彼らはまともな社会性を持ち合わせていないため、外に出るとすぐにトラブルに見舞われます。

ネットはあくまで世界を広げてくれる道具であって、世界そのものではありません。そこをはき違えて痛い目に遭うのは決して愉快なことではありませんが、はき違えたまま大人になってしまい、パニックに陥っている人達も、今では大勢います。同じ状況にならないよう、くれぐれも注意しましょう。

以上のように、得手を知るためには、自分から外の環境に出たり、刺激を受けなくてはなりません。かと言って、行っても良いことが無いと分かっている学校に行く必要は無いでしょう。その場合には、早いうちに転校して別の学校へ行ってみるのも良いでしょうし、ここみたいな塾を捜してみても良いでしょう。

身に危険が及ばなければ、どんな方法であっても構いません。自分の得意分野を見つけることで、大人になったときの社会での立ち位置が、少しずつ見えてくるでしょう。

 

6:今は、人と違った生き方が力になることが多いです。

最後に確認しておいて欲しいのは、不登校という状況が、実は大きな可能性を秘めているという事実です。

と言っても、これは何も「社会の中で自立して生きることの出来ない、可哀想な子達」を慰めるための、都合の良い方便ではありません。

現実的に、今は不登校のような人と少し違う経験が力になりつつあります。例え今が困った状態だとしても、自分の人生に責任を持ち、時代の方向性にマッチした努力をした子は、どのような境遇からでもそれなりに面白い人生を送ることが出来ています。

全ての価値は「差異(他の存在と違っていること)」から発生するものであり、今は、個人的経験のレベルでの「差異」が、特に力を持つ時代に差し掛かっているからです。

逆に言えば、不登校の状態を漫然と続けたり、いつまでも「自分はダメだダメだ……」のような陰鬱な思考を無思慮に続けていると、気が付いたときにはどうにも詰まらない生涯が確定してしまいます。無思考も過剰な自己否定も、詰まる所全て自分に責任の取れない、惨めで卑しい人間がすることです。

どのような境遇であったとしても、どのように生きるかは自分で決めなくてはなりません。生きている以上、最後は全て「自己責任」で押し切られます。

しかし、これについては長くなるので、また別の機会に回しましょう。

最低限、上の1~5をきちんと守れば、6の意味は自然と分かってくるでしょう。CARPE・FIDEM(ラテン語で「己が揺るぎない信念を持て」)とは、この意味を理解した人達が、或いは、理解しようとしている人達が集まるところです。

一見すると不幸せそうに見える「不登校」。しかし、本当に優れた人とは、マイナスっぽい状況をプラスに転じることの出来る人を言います。

ここに書いてあることを足掛かりにして、違った生き方を始めたことで見えてくる世界というものを、自分の目で確認してみて下さい。

分からない人には何も分かりませんが、分かる人にとっては、今はちょっと面白い時代です。

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