今でも工夫はしていますが、私は人の優れた部分を見つけると、可能な限り自分の才として取り入れることにしています。もっとも、私の能力には限界がありますので、実際にどの程度まで実行出来ているかは不明ですが、少なくとも、日々そのつもりではいます。
引きこもりや不登校とは関係ありませんが、30歳を前にしたときに、たまたま2人の旧友と出会ったことがあります。片方は結婚し、子供が二人いるお父さんで、既に家も買っていました、片方は未婚で、恋愛経験も無く、実家暮らしでした。学生時代には何ら差を感じなかった二人でしたが、30を迎えた両者の考え、立ち振る舞い、展望、現状認識には明白な差があり、後者が優れている要素は、何一つとして存在しませんでした。
見えない何かが最初から違っていて、それが加齢と共に具体的な差異として表面化したのか、或いは、偶然による行動の違いが、等しかった両者の考えを根本から変えたのか、因果は定かではありませんが、優劣については誰の目にも明らかなものがありました。
不登校や引きこもりでも優れた才覚を示す人物は確実に存在しますが、それはほぼ全て若年期にのみ認められるもので、長期高齢引きこもりで優れた才覚を残した人物には不思議なほど出会いません。
優れた人間は先に引きこもりから抜けてしまい、澱(おり)のような存在だけが残るからそう感じるのか、或いはどんなに優れた才覚も、引きこもりという期間がその才覚を押し潰すに十分過ぎる時間なのか、こちらも定かではありませんが、優劣については誰の目にも明らかなものがあります。
ただ、
「何かを背負っている人間程、人間としての成熟度が高く、背負われている人間程、人間としての成熟度が低いこと」
だけは十分に分かっています。
優れた人物ほど「背負う」ことに積極的で、劣った人物ほど、「背負われる」ことに終始します。自立を意識して日々努力している若年層引きこもり等が前者で、生活保護やベーシックインカムの話ばかりする長期高齢引きこもり等が後者の具体例と言えますが、恐らく、この点は誰が見ても同様に判断するでしょう。
とは言え、上記事実は、私自身にとっての戒めでもあります。幸か不幸か、今の私は総合的に見て非常に安定化し、特に大きな不自由もなく生活が出来、環境も恵まれていて、時間不足を除けば日常に対し何一つとして不満がありません。それが逆に、次に抱えるべき「大きな何か」を忘れさせています。これは大変愚かしいことで、程度の低さから言えば自立を拒否する引きこもりと何ら変わりありません。
どのような立場にいようと、成長は何かを背負うことで生まれるのは事実でしょう。今抱えている何かが軽く感じるようになったのなら、次の背負うべき何かを探しに行くのが、本来のあり方なのかも知れません。そして何を背負うかで、人そのものが大きく分岐する現実もまた、生きる上での妙味と考えます。
お盆休みを控えお墓参りの季節になりましたが、一年の成長も反省も含め謙虚な姿勢で、今は亡きご先祖様方に報告したいと思います。
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