不登校・引きこもりからの大学進学塾

ブログ

一連の「学校行かなくて良い」ムーブメントは、何かおかしくないか?

良い議論がなされておりましたので、紹介を。

「学校は行くのは当たり前なのか?不登校になったら何をすればいいのか?小籔千豊らが激論」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180823-00010002-abema-soci

https://abematimes.com/posts/4775841

CARPE・FIDEMは不登校や引きこもり経験者向けの塾なので、本来なら、

「つらかったら学校なんて行かなくて良い」

と主張する側に立つべきなのでしょうが、私自身はあまりそうは思っていません。確かに、行くことで「死」が確実に迫ってくるなら行かないで良いと思いますが、そうでないなら「とりあえず行ったら?」の立場です。

叩かれる話題なので押さえて話しますが、結局のところ引きこもりとは、ただの「有能無能問題」だった訳で、社会に適合しやすい有能力者ほど短期間で解決し、適合出来ない無能力者ほど長期間引きこもる現実が強固に存在しています。これは、現行の「8050世代」の当事者を実際に見てみればすぐに分かる話であり、難しい話題でも何でもありません。

ただ、無能力者でも訓練で有能になることは十分に可能で、無能力自体を叩く必要はありません。無能力が害悪なのではなく、「無能力のままでい続けたことが害悪」なのです。しかし、有能になるチャンスは若年期にしかないため、高齢化した引きこもりは結局社会の害悪にしかならない。これが、長期高齢引きこもりの最大の課題となっています。

となると、不登校も不登校で構わないのですが、未来の無能力者を量産するような不登校、つまり、「不登校のまま何ら対策をしないまま放置する行為」は、社会にとっても本人にとっても家族にとっても確実に害悪となるため、その点はきちんとしないといけません。無論、判断は不登校の子本人の意志でもありますが、同時に親御さんや、フリースクール等の支援側運営主体の責任でもあります。

「ローマ人の物語」で有名な塩野七生さんが書いていらした話です。何故か理由は分かりませんが、イタリアの教育現場でも、エリート層程、青少年期に厳しい教育を受け、逆に底辺層ほど「自由」だとか「主体性」等をウリにした緩い教育を受けるそうです。一見すると、「自由や主体性」というお題目は素晴らしく見えますが、実際に蓋を開けてみると、成人した後の後者はほとんど使い物にならず、前者だけが成果を上げていく。つまるところ、若年期の「自由と主体性」は案外価値を持たない。

若年期の「自由と主体性」を生かせるのは、一流校在籍者に多く、底辺校ほど少ないことが経験則的に分かっています。上位校の学生は賢いため、勉強程度はそこそこに済ませ、能力を活かした次のステップに進むことが出来る一方、逆の場合は勉強さえもままならないため、+αもへったくれもない。それ故、上位校ほど自由や主体性をウリにした校風になり、底辺校ほど、体育会系教師が幅をきかせる、監獄的な組織になります。もっとも、監獄化させないと、「動物園」になってしまうという深刻な事情もあるわけですが。

そのような現実がある中で、私個人としては、不登校向けのフリースクールが、どうにも、

「行きたくなかったら行かなくて良いんだよ」

「君が動きたいと思うときだけ動けば良いんだよ」

的な傾向を持っていることに違和感を感じています。実際、死の淵に立たされたような場合はそれでも良いと思いますが、今の不登校ってそこまでギリギリのケースは少ないんですよ、昔と違って。以前書いた、マイルド不登校の話題ですけど。「来たいときだけ来れば良い」で育てられた人間が、本当にその後使い物になるのか、個人的には懐疑的です。監獄のようにガチガチに縛る必要性はどこにもありませんが、日々の小さな我慢を蔑ろにする人間が、本当にまともに生きられるのかと。

二学期が始まる時期は、10代の自殺が増えるそうです。従って、自殺を止める意味での「行かなくて良いんだよ」ムーブメントは、ワンストップ戦略としては優れていると思います。しかし、言いっ放しで放置となれば、これは最終的に家族全体の悲劇を生むだけで、現状での引きこもり手遅れ層の失敗経験が全く活かされないことになってしまいます。

不登校でも良いし、引きこもりでも問題無いのは事実です。しかし、それは各人がそれなりの自立姿勢を鮮明にし、自分なりの生き方を模索して初めて言える話です。「学校に行かなくて良い」と言うなら、その後の方向性も具体的かつ分かりやすく説明するのが、社会の中で子供達に先行する私達の義務ではないかと考えます。

pagetop